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皮ジャン反抗族のninjiroのレビュー・感想・評価

皮ジャン反抗族(1978年製作の映画)
1.8
舘ひろし主演映画、タイトルが「皮ジャン反抗族」とくれば、当時多くの人が連想したのは舘ひろしが創設したバイクチーム「クールス」のことだったろう。たっぷりとしたボリュームのリーゼント、黒いレザージャケットを羽織り、真っ黒なティアドロップサングラスを掛け、黒光りする大排気量のアメリカンバイクに跨った武骨な男たち。後の写真でしか知らないが、当時のその出で立ちはおよそ40年後の今の眼で見ると一周も二周もして「やっぱり怖い」である。ただ、当時の不良少年たちが猛烈に彼らに憧れたであろうその心情は理解に易く、特にリーダー舘ひろしの醸し出すその男の色気たるや、当時の日本人の規格を大きく外れた妖しさ艶めかしさを湛えていた。クールスのメンバーを従え日本人離れした長身の舘ひろしがバイクの横でダルそうに立っているだけ、もうそれだけで猛烈に絵になる。そのスター然とした様子を映画として記録したい、映画になんならそりゃ観に行くべ、送り手と受け手の欲求のバランスが幸福にもマッチングするとなれば、それは高効率なビジネスの源泉となることは言うまでもない。
本作を観賞した人は漏れなく、少なからず本作に冠されたこの「皮ジャン反抗族」というタイトルに違和感を持つのではないか。タイトル中の日本語「族」は英語ではtribeと同義であり、一定の共通性を持った複数の個の集合体を指すものであるが、このタイトルがその「族」の言葉の意味通りであるならば、皮ジャンというアイテムがその共通性であると見做され、「皮ジャンを着ていちいち何に対しても不服そうな顔をした人」の「一団」が劇中出て来ないことには本来間尺に合わないところであるが、実際のところ本編には「皮ジャンを着ていちいち何に対しても不服そうな顔をした舘ひろし」が出てくるばかりであり、しかもその舘までも途中から皮ジャンを着てすらいない。ならば勢いこの「族」という文字が生物分類学上の階級の一つである「族」を指すものであると仮定するならば、goo辞書によると「族」はその上位である「科」と下位である「属」の間に必要に応じて設けられる階級とのことであり、これに従い本来「哺乳網霊長目ヒト上科ヒト科皮ジャン反抗族舘ひろし属」となるところを便宜上大幅に省略したものが本作タイトルであると一足飛びに結論付けたくもなるところであるが、私の知見の及ぶ限りに拠れば「舘ひろし」とは生物学上の種名ではなく、ヒト科に属する生命個体がその属する血統の体系を助するための「氏」と血統中の個体特定の為呼称する「名」の組み合わせの一つであると認識している。こうなって来るといよいよ「皮ジャン反抗族」というタイトルの持つ意図は日本映画史という広大な森で深い霧の中に包まれ、率直に言えばどうでもいいこととして忘れ去られてしまうところであるが、そこを敢えて無理矢理引っ張り出して別の視点、当時の時代背景を踏まえて考察をしてみるに、本作の公開は1978年、その近年まで「クールス」は世間的にはただのとっぽい暴走族でしかなかったが、徐々にチームは衆目を集め、芸能界からのオファーを受けてバンド活動、映画出演など俳優としての活動をグループとして始めたばかりであった。しかしそんな中、メンバー内でもリーダーとして一際目立った存在であった舘ひろしばかりがバンドではフロントマン、映画では主役扱い、他のメンバーは自分たちが舘のバーターとして脇役とも呼べない程の雑な扱いを受け続ける状況に痺れを切らし、舘に決別宣言を叩きつける。この事件が勃発したのが1977年、本作公開前年の出来事であった。当時の東映における映画制作のスピード感から考えるに、本作の企画・制作が実際にスタートしたのはとうに舘がクールスを脱退した後ではなかったかとも考えられるが、恐らく東映としても当初の念願としてはカリスマティックな暴走族クールスとしての舘の映画を望んでいたのではないかと推察される。その残尿のような余韻が垣間見えるのがこの「皮ジャン反抗族」というタイトルであり、叶わないとなったからにはという捨て鉢感が本作のトンチキな出来栄えの所以ではないかとも推察出来るのである。
監督は長谷部安春、このタイトルから同監督の日活時代の代表作「野良猫ロック」シリーズや「野獣を消せ」などに見られた躍動的ヴァイオレンスを本作に期待すれば完全に肩透かしを食らうだろう。作品冒頭でこそ内田裕也扮するヤクザが率いるチンピラと舘ひろしによる小競り合いが見られたりもするが、全般において繰り広げられるのはチマチマとした規模のローテンポな青春ドラマ、スカっとした爽快感など望むべくもない。これもクールスの不在に伴いアクション映画としての組み立てが上手くいかなかった為なのか、しかし映画は商品であるからにはなんとしてでも売らなければならない。ならばとばかりに繰り広げられた制作会議は、恐らく居酒屋で行われたのではないか。最終的に商品として送り出された本作を総括すれば、「酔狂」の一言に尽きる。
まあ(館)ひろしはマストだとしてさ、あとどうする?ちょっと一人じゃパンチに欠けるし、最近流行りのあれ、ディスコ?サタデーナイト的な。あれ(ひろし)タッパ(身長)あるし、下手すりゃトラボルタみたいな感じでいけるかもよ。じゃあ今アッコ(和田アキ子)と一緒にやってる大幸ちゃん(長戸大幸:being創始者)が最近ディスコ詳しいみたいですし、ちょっと頼んでみましょうか?うーん、まあそりゃいいけど、それだけじゃなんか安易な感じもするし、こう普遍的な、芸術?みたいの欲しくない?俺こう見えて結構フェリーニ好きなのよ。「甘い生活」?痺れたわー。そんなん言うなら俺はなんつったってジミー(ジェームス・ディーン)よ。もう今頭ん中で(館)ひろしがジミーに見えてんもん。バイクに乗ったジミー、どうよこれ!(バシッ!:卓を平手で叩く音)ジミーねぇ…それ髪型にだいぶ引っ張られてない?まあ別にいいけど。ノリでまとめちゃえば何とかなるかもね。あ、お姉ちゃん達来た来た!こっち!こっちだって〜!
というあり得ないシーンが観ながら頭を駆け巡りはしたものの、以上は勿論全てが個人的な想像の産物であり、「感想」以外の何物でもありません。
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