“Sir, yes, sir !”
同情、恐怖、欲望...
そんなもの戦争には不要だ。国家権力は個人から感情を排除し、量産型の戦闘兵器へとつくりかえる。こうして“人間らしさ”を削がれた兵士たちは、全体を合金で覆われた銃弾(=フルメタル・ジャケット)そのものに他ならない。
『突撃』『博士の異常な愛情』に続き、キューブリックはまたしても「国家権力の暴走」をコミカルな風刺劇に昇華することで、反戦を謳った。命令に従うしかない兵士たちを、犠牲者として映しているところも共通している。
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しかし本作は、物語の後半から上記のような風刺劇の形態を終える。その代わりに本作が後半から映すのは、戦場に立つ普遍的な兵士たちの姿だ。
ここで印象に残るのは、『地獄の黙示録』と同様、まさに“アメリカが”アジアを侵食していくイメージだ。それを焼きつけるのは、『地獄の黙示録』ならサーフィンやプレイメイト。本作ならミッキーマウスマーチである。
加えて、兵士たちは慰安婦に高ぶっていたり、死んだベトナム人兵士と写真を撮っていたりと、余裕やユーモアのようなものが窺える。つまり、「洗脳」といっても過言ではない徹底的指導を以てしても、国家は戦地に立つ兵士たちを縛り切ることはできないのである。
舞台が第一次世界大戦だろうと、冷戦だろうと、ベトナム戦争だろうとキューブリックの描くことはそう変わらない。個人の特性を押しつぶそうとする全体主義国家を批判的に描いた『時計じかけのオレンジ』を考えても、そこに揺るぎない作家性があることは明白だろう。