晴れない空の降らない雨

嘆きの天使の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

嘆きの天使(1930年製作の映画)
4.2
 マレーネ・ディートリヒの太ももに殺される中年童貞のお話。文学一筋の教授が、商売女にイチコロにされる前半の運びの説得力。女の慣れた手管に男のウブな反応(照れ笑いが可愛い)の脚本もそうだが、やはり主役2人の対照的な容姿と演技力が大きい。というかエミール・ヤニングスってこのとき46歳だったのか。老けすぎだろ。あの禿げ方はヤバい。本人が元々キャバレーの歌手だったというディートリヒは、当時まだ無名とは思えぬほどファム・ファタールとして完成されている。彼女の肢体、衣装、歌声、そしてあの高笑いに、終始何とも居心地悪い気持ちにさせられる映画だった。
 
■ドイツ表現主義へのオマージュ
 1920年代はドイツの優れた映画人たちがアメリカに招かれ、そのうちルビッチは早々に居着き、1930年代になるとラングとワイルダーがナチスから亡命してアメリカ人になった。ところが本作の監督スタンバーグは、アメリカ育ちのユダヤ系ドイツ人で、逆にドイツに招かれて本作を撮ったという珍しい経緯がある。
 そんな本作には、ところどころに過ぎ去りし黄金期ドイツ映画に対するオマージュが散見される。もっとも、本作鑑賞の前に押さえておくべき、という程ではない。例えば、『カリガリ博士』や『吸血鬼ノスフェラトゥ』に出てくる妙に尖った屋根に始まり、『ノスフェラトゥ』のパロディの壁の影や、いわゆる「街路の映画」を思わせる深夜の路地、そして全体としてはやはりヤニングスが主演を務めた『最後の人』を思わせる。
 
■ヨーロッパの精神的危機
 そうした表層のみならず、この映画全体を覆う頽廃のムードと悲劇的ストーリーが、前世紀末からつづくヨーロッパの精神的危機を明瞭に反映している点でも、ドイツ表現主義との共通性は明白だろう。しかし、リアリストのスタンバーグは、より自覚的な現実世界の観察者だった。また、世界恐慌によって一挙にワイマール帝国の政情が不安定化したことは、危機感をより先鋭的に表現させたかもしれない。
●信仰の崩壊
 本作のタイトル“Der blaue Engel”とはキャバレーの名前でもあるわけだが、blau=blueには「酔っ払った」という意味もある。もちろん、これはディートリヒのことも指している。邦題だとまるで彼女が悲劇のヒロインみたいだが、実際は正反対のファム・ファタールである。こうした女性像もまた19世紀末的な表象だが、それを「酔っ払った天使」と表現することに、聖性の失墜・宗教の没落といったテーマを読み取るのは穿った見方ではないだろう。つまり、キリスト教というヨーロッパの精神的支柱が崩れていく時代背景も、メタファーによって物語に織り込まれているのである。
●男性性の失墜
 ワイマール期映画の青年男性はだいたいが無能か狂人で、問題解決は女性のマリア的慈愛とジャンヌダルク的犠牲頼みだった。結婚をめぐる不安も同時代におなじみのテーマであり、ルビッチの艶笑喜劇もそうした文脈のもとにあった。
 そして、その末期にきて、ついに男性を屈服させる強い女性が、マレーネ・ディートリヒの鮮烈な身体をもって登場した、といえよう。本作に投影された男性の自信喪失と不安からは、「強い男性=総統」を待望する心理さえも容易に想像できてしまう。本作はかくも、アメリカ在住の人間が撮ったとは思えないほど、世界恐慌とナチス前夜というドイツの時代的コンテクストを暗示している。
●高尚文化(劇文学)の衰退
 主人公のラート教授は、男性的権威というだけでなく、学問と芸術という伝統ある高尚文化をも象徴している。序盤で彼が教えているのはシェイクスピア、つまり古代ギリシャ後で最も重要と目される戯曲家である。その後、彼はいかがわしいキャバレーで歌うディートリヒを目の当たりにする。男性と女性を介して、崇高な舞台芸術が、下劣な舞台の見世物に遭遇するのである(歌劇団の長のセリフはもちろん皮肉を込めた注釈だ)。両者を「精神的」と「肉体的」、と言い換えてもよいわけだが、とにかく本作のストーリーは前者が後者に敗北することのメタファーにもなっている。
 そして映画は、この不可逆的過程をおしすすめたメディアでもあった。この点において、演劇との連続性を保っていた標準的な表現主義映画から、リアリズムを志向する本作は袂を分かっている。当時のドイツ映画もまた表現主義を離れ、リアリズムが主流となっていたという。
 本作が、映画として、演劇とはっきり手を切る瞬間がある。物語の中間点で、主人公が教授をクビになる。いつもなら授業を行う教壇で、彼は無言で頭を抱え途方に暮れている。このときカメラは徐々に後退することで、学生らの去った教室全体を眺めるとともに、ラートを突き放して客観的に捉える。これは演劇における感情の誇張表現や、その映画的翻訳であるクロースアップの真逆をいく演出である。このショットの重要性は、それがラストで反復されることからも明らかだろう。
 次のシーン、意を決した主人公の求婚で、映画ははっきりと演劇的芝居を嘲弄する。ヤニングスの形式ばった言葉遣いと身振りは、ディートリヒの耳障りな哄笑で迎えられるのだ。数年後、このシェイクスピア研究者は、自ら舞台に立つことになる――道化師として。