Daisuke

(500)日のサマーのDaisukeのレビュー・感想・評価

(500)日のサマー(2009年製作の映画)
4.3
[永遠なる500日]

※完全にネタバレとなります
※1967年の映画「卒業」のネタバレが含まれます(なるべくボカしますが)


あらすじ

-はじめに-
-「これは恋物語ではない」-
-前後する時間軸-
-トムとサマー-
-「卒業」と「500日のサマー」-
-トムの"建築"の物語-
-おわりに-



-はじめに-

この映画は鑑賞済みだったが、詳しく読み解いてみたいと思い再鑑賞。
特にこの映画では「サマーが心変わりするキーになる部分」で1967年の映画「卒業」が使われており、見てなかった私はまず「卒業」を鑑賞してみた。(前回の「卒業」の感想を見てくださると嬉しいです)
いざ「卒業」を見てみると、あの有名な映画評論家Mさんの解説と自分は違った印象を持ち、さらに「500日のサマー」で「卒業」を見終えたサマーの心情もその方の解説とは違う視点で見ていた。
私は常日頃「映画の外枠(制作者の意図)には正解はあるが、映画をどう感じたかという意味での内側(鑑賞者の気持ち)に正解や不正解などない」と思っている。
特にこういった恋愛映画の感想は、自身の今までの恋愛、大きく言えば人生観すら関わってしまうので、自分の感想はまだまだ青くて恥ずかしい感想だと思っていただきたい。

-「これは恋物語ではない」-

幕開け。
「ジョニーベックマンめ、クソ女が」という原作者からのメッセージから幕を開ける。初めこの映画は彼の復讐のために書いたものだと思っていたが、最後まで見ると実はそうではない事がわかる。
グリーティングカードを作る仕事をしているトムはサマーに一目惚れ。
この後のナレーションが重要で「これは男女が出会う物語だが、前もって断っておくが恋物語ではない」と入りオープニングクレジットがスタートする。つまり「恋愛物語」ではないと宣言をしているのだ。では一体この映画は何を語っていたのだろうか。
実は再鑑賞でいろいろ気がつく事がたくさんあったが、特にオープニングクレジットのシーンですでにこの映画はたくさんの事を語っていた。
トムとサマーの子供の頃から少年少女になっていくまでを画面の右と左で「分割」されて映し出される。これは二回目に鑑賞するとグッときてしまう。これから二人は出会うのだという事の喜び、そしてお別れをするという悲しみが同時に押し寄せてくるからで、さらにそれは分割画面を使ったことで「二人の世界は別々のものなのだ」という暗示にも見えてしまうからだ。
トムは活発な少年時代だが少しづつ音楽に目覚め、そしてサマーはここですでに鶴を折っている。後ほど語るが彼女の心を表す「青い鶴」がすでに映っているのだ。
そして監督のクレジット前、左でサマーがタンポポを飛ばす、それを右のトムのシャボン玉の動きが重なる。ずっとバラバラだった二人の動きが一瞬だけ重なるように見える。まさにこれからの二人の関係性を象徴的に見せる素晴らしい演出だ。
(こじつけかもしれないが、男性が左、女性が右というのも左脳(論理的な部分)右脳(感情的な部分)と分けられているようで興味深い)

-前後する時間軸-

まずこの映画を見て面白いと感じるのは始まりから終わりまで順序よくならべた物語ではなく、一部シャッフルされてるような作りになっている構成だ。冒頭では488日目のもう終わりに差し掛かってるところからスタートし、290日目、28日目、31日目、といった具合だ。
これは私も経験があるが、やはり別れの時に今までの楽しかった事や悲しかった事を走馬灯のように思い出すあの感じに似ている。
今作はトムとサマー二人の物語だが、全編にわたりトムの視点で構成されているため、こんな妄想もできる(見方の提案)。
もし488日目からが劇中のリアルタイムであるとすると、そこからはトムの頭の中の「再構築されたもの」だという見方だ。
つまり我々観客が見ている488日目以前のトムとサマーとのやりとりは、トムが脳内でところどころ美化したり、より切ない場面にしているのではないだろうか。そうするとあの「ダンスシーン」なども心情表現だけでなく彼が別れ際に作り上げた妄想だと思うと多重構造になって面白い。彼は冒頭でも示されるようにロマンチストな人間であり、グリーティングカードの仕事をしているような男でもあるのだから、そういった見方も可能ではないだろうか。

-トムとサマー-

トムは「運命の女性に出会わないと幸せになれない」と思っているロマンチスト。一方サマー「恋を信じるの?愛は絵空事よ」とリアリスティックな女性だ。この二人が後半で完全に真逆になる事が今作の魅力的な部分のひとつだが、なぜそうなっていくのかを少し考えてみた。
トムが441日目と半日、会議室でこんな事を言う。
「みんなに聞きたい愛ってなんだ?映画もポップスも嘘ばかりだ。その責任はぼくらにある。綺麗事に意味はない。この世はデタラメだ」
トムは自身の性格もあるが映画やポップスからの「愛こそ全て」だという
「イメージ」で彼の恋愛観が作られてしまったのだ。だからこそ自分の理想の恋愛像を強く持ってしまっていて、そのズレが生じるとストレスを抱える人物だという事がわかる。
その逆にサマーは冒頭で示されるように両親が離婚していることから、恋や愛は幻想なのだという事を感じてしまった人物だ。
さらにサマーは子供の頃から鶴を折っているが「恋人になるのは嫌、誰かの所有物になるのは嫌 自分のままでいたい」というセリフからもわかるように、常に飛び立ちたい、束縛されずに自由でいたいと思っているのだ。
今まで見てきたような「運命の恋物語」を行いたいトムと、そもそもそういった恋や運命などないと思っているサマー。
この異なるベクトルが生じている事でやはりうまくいかない。
しかしここで疑問点も出てくる。
そこまで運命や恋や愛などを信じないサマーは、なぜトムにキスをしたり身体の付き合いをしたりしたのだろうか?彼女が言うように「遊び」だから?
いろいろな意見があると思うが個人的には「サマーは自分に愛が宿るのかどうかを試していた」という見方をしてみたい。
最初のコピー機でのキスシーン。あきらかに唐突であり、なにか自分の気持ちを探るかのようなキスシーンだ。(トムは何も気がつかつかずラッキー程度にしか思ってなさそうなギャップも面白い)
サマーはロボットではなく一人の人間であるため、やはり自分の心にある「人を愛したい」という気持ちと「愛などない」という矛盾を抱えていて、
トムに一度飛び込んでみることで「自分が変わるか試してみたい」という欲求がそうさせたのではないだろうか?鶴はずっと飛び続けることはできない。どこか安息できる足場を探しているのだ。
そしてその心は、劇中で二人が観る1967年の映画「卒業」の主人公ベンジャミンの行動原理と全く一緒のように思えた。

-「卒業」と「500日のサマー」-

「500日のサマー」の中で、映画「卒業」を見るシーンがある。
劇中では卒業のラストシーンであるバスの中のベンジャミンとエレーンが映し出されている。よくあるハッピーエンドのような終わりかたではなく、ベンジャミンとエレーンが笑顔を交える事はなく映画が終わる。
あのシーンを見たサマーは泣き、トムとの関係性を終わらせる大きな一手となってしまう。一体サマーの心はどんな心境だったのだろうか?
これは映画「卒業」を鑑賞してようやく自分なりの結論を見つけた。映画評論家の方の解説では「サマーは強引に奪ってくれるベンジャミンのような人間に出会いたかった。トムはそうでない事にサマーは気がついた」と語っていてそういった見方も確かにあると思う。
だけど私は前述したように「サマーはベンジャミンに共感していたのではないか?」という見方をしている。なぜなら290日目のダイナーでの会話で「シド&ナンシー」の会話をする下りがあり、そこでサマーは「シドは私よ」と語っているからだ。サマーはどちらかというと男性的な考え方を持っている女性であり、前述したように愛の有無に悩み「自分が変わるか試してみたい」という心情からトムへ先にアプローチした側だからだ。
「卒業」でもベンジャミンは誘惑されたロビンソン夫人へ自分を変えるために飛び込み、さらにはその娘であるエレーンへと飛び込んでいく。
しかし最後のバスの中で愛へと飛び込んだものの、その行く末は何か不安になる表情で終わる。
あれを見たサマーは、映画の中のベンは自分と同じであり、何かわからぬ愛というものにただただ必死に飛び込んだとしても、幸福は見えず、その不安は決して消えないという真理に気がついてしまったのではないだろうか?
だからこそサマーはトムとの関係を「卒業」を通して俯瞰し、自分の行動に気がついてしまい「トムと乗ったバス」を一度降りる決断をしたのではないだろうか。

-トムの"建築"の物語-

トムはグリーティングカードを作る仕事をしているが、本当は建築の仕事をしたかった。95日目にトムがサマーに対してビルの建築について説明するシーンがある。彼が建築のことを本当に好きなことがわかる場面だ。
「立派な建築が引しめきあってる。皆が気がつけばいいのに」とトムは言うが、これはある意味ではトム自身のことをもっと見てほしい、と言ってるように思える。この物語の中で「建築」とは彼の夢であり心のことを指している。サマーと別れ、もう一度自分を見直そうとするシーンが素晴らしい。
様々なことが書かれた黒板をすべて消し、建築物の絵を描いていくシーンは、自分の心を一度まっさらにして、心をひとつひつ直していくような光景に見えるからだ。
サマーとの楽しかったことや苦しかったことを一度消し去り、本当に自分がしたかった事を見つめ「自分の心自体を建築し直す」といった意味合いが重なる。
昔からのラブストーリーに振り回され、自分の事だけを相手に押しつけて、
それでいて自分からは全く動かない。そんなトムが、ようやく自分と向き合って次へと進むことができたのは、やはりサマーとの500日間があったからだ。
サマーもまた同じように、トムがいたからこそ「運命の相手」に巡り合うことができ、愛を信じることもできるようになった。
二人は初めからいわれていたように「恋愛物語」にはならなかったが、これは二人が互いの事を理解できるようになる「成長物語」だったのだ。
自分自信を理想的な人間へと設計するのは本当に難しい。本気になって他者と向き合い、そこで何かに気がつき、そのパーツをひとつひとつ繋いでいくしかないのだから。

-おわりに-

トムは最後に就活先で女性と出会うが、そこで言う台詞がいい。
「君が受からない事を願うよ」
音楽の音量を高くして女性の気を引こうとしていたトムが、格好をつけずサラッと本音を言う場面で、あきらかに成長していることがわかる。
そして常に受け身だった男は自ら声をかけ、また「1日目」がスタートする。

ただし、ここからまたこの映画のオープニングへと戻るかもしれない。
今度は100日?1000日?
いや、日数など関係ない。
何度も何度も繰り返し、
様々な出会いと共に、
何かに気がついたり、
何かを与えたりしながらも、
人生は続くのだ。

あの500日間は、自分を形作る大きな一部となって、

また次の愛へ。
Daisuke

Daisuke