カラン

灼熱の魂のカランのレビュー・感想・評価

灼熱の魂(2010年製作の映画)
4.0
中東の1人の女性と、古代ギリシアの悲劇が交錯する。ソフォクレスの悲劇『オイディプス王』は、フロイトによれば、人間の欲望の骨格である。

オイディプスの父はテーバイの王で、産まれてくる子は、災いを生むので、子を作ってはならないという予言をされた。しかし王は酒に酔って子を作ってしまった。そこで王は子のかかとに穴をあけ、ロープで足を縛り、崖から捨てさせた。

死んだはずの子は、人知れず、羊飼いに拾われ、ギリシア語でかかとを意味するオイディプスという名を付けられる。青年になったオイディプスは、父王を父と知らず、殺し、母である王妃を母と知らず、子を作る。

『灼熱の魂』の冒頭の男の子のかかとに付いた、黒い3つの斑点は、オイディプスという名の傷痕からやってきたに違いない。オイディプスにおいても3とは、父と母と子である。

オイディプスの物語をもう少し辿ろう。オイディプスが王を殺し、テーバイの町に行くと=戻ると、スフィンクスが町に疫病を撒き散らし、人々を食べていた。スフィンクスがオイディプスに謎をかける、「最初は4本足、途中は2本足、最後は3本足の生き物は何か?」オイディプスは「人間だ=自分だ」と答えてスフィンクスを打ち破る。こうしてオイディプスは英雄としてテーバイの町に迎えられ、母と交わるという運命の成就に向かう。

悲劇は、ソフォクレス、シェークスピア、夏目漱石、どの悲劇でも隠れた真実が明かされる時、真実に関わる人間の人生を破壊する。

『オイディプス王』の場合、母は真実が明かされた瞬間、首を吊る。父を殺し、母と交わり、自殺に追いやったオイディプスは、妃=母の首に下げられた、黒い十字架ではもちろんないが、首飾りで自らの両目をえぐる。そして3本足で、つまり杖をつきながら、放浪の旅にでる。

1+1=1、つまり子が母と交わる父の禁断の位置を占めること。素性を示す足に残ったサイン。本来父であるべき者は死んでおり、母が真実の開示ともに死ぬこと。間違いなくこの映画の無意識にはソフォクレスの悲劇がある。

しかし悲劇において真理の顕現はもっとも崇高な場面のはずなのだが、場所は市民プールで、自分は偶然目にしたが相手は気付かないというのは、いかにもとってつけたご都合で、映画のエモーションを危うく壊しかねない。

この映画の力点をどこに置いたらよいのだろう。それがもし、人の心を掻き乱す真理の伝達にあるとするならば、評価は難しいと私は思う。しかしこの映画が元にしている《物語》は、元々は舞台での描出用に作られたのだが、それは告知が結末ではないようだ。ここまで、真面目に読んでくれた人ならばお付き合いいただけると思うので、案内すると、下のコメント欄にgrimm98氏から、舞台で描かれた原作についての丁寧な説明がある。そちらを是非参照していただきたい。

ドゥニ・ヴィルヌーブの次回作は、これまた名高き『ブレードランナー』の続編である。ヴィルヌーブが物語のあるのかないのか分からない深みを垣間見せながら、紆余曲折に付き合わせる天性があるのはわかった。『メッセージ』では、この点はエイミーアダムスにワインを飲ませ続けてアル中か鬱病患者の妄想であるのか、それとも本当に異星人とのコンタクトの結果としての予知能力が実在したのか、曖昧にすることで物語に怪しいもやをかけていた。引き込む術を心得ている賢い人である。

今、私たちは、リアルタイムで傑作の中の傑作が生まれてくる試行錯誤のプロセスを見ているのかもしれない。そう思わせるものは強く感じた。

次作を期待!

ポストモダンのポストを描ききれるのか?

待つ。
カラン

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