Kuuta

ションベン・ライダーのKuutaのレビュー・感想・評価

ションベン・ライダー(1983年製作の映画)
4.0
ビューティフルドリーマー

相米慎二監督の3作目。元は4時間近い映像を2時間にまとめたそうで荒っぽさもあるが、前半は漫画的な「終わらない夏休み」の快楽、後半は夏休みから抜け出せない大人と子供の破滅、と理解した。

いじめっ子の「デブ」がヤクザに誘拐される。ブルース(河合美智子)、ジョジョ(永瀬正敏)、辞書(坂上忍)が救出のために旅に出かけ、夏休みの終わりとともに東京に帰ってくる、というお話。

実名が出てこない事からも明らかのように、前半はフィクショナルなキャラクターによるドタバタ活劇。過剰な効果音や不自然な画面合成など、漫画の実写化のようなことをやっている。

この手の作風の安っぽい、フィクションである事に甘えたような映画は、今の時代まで特に邦画で量産されてきたと思う。が、今作は画面の面白さが段違いだ。

それは
・長回し撮影による息苦しいリアリティ
・異様なロケーションや小道具が演出する漫画的な非現実性
・目を見張る「現実の」大胆なアクション
これらの絶妙なバランスで可能になっている。この画面は、何となく雰囲気で撮っても再現出来ないだろう。

ヤクザのいる暗闇に対比される、イノセンスの象徴としての白。白いフェンスの中のプールで泳ぐ子供たちで始まるこの映画は、現実の川を越え、海へと向かう。

フィクションの「キャラ」として純化した少年少女が縦横無尽に見せるアクションが、ひたすらに美しい。落下、上昇、横移動を捉えていく長回し。

ガードレールをひょいっと飛び越える河合美智子の軽やかさ、どう見ても危ない体を張ったアクションの数々。こんなにフィクショナルなのに現実にやっているという、この違和感がたまらない。画面脇で警官とヤクザが乱闘を始める、横浜の街のぶっ壊れ感も楽しい。龍が如くみたい。フィクショナルな違和感を現実のアクションでねじ伏せる、大胆な画面作りに感動する。

(余談だが、同時代の巨匠、大林宣彦は不自然な画面を作り込み、その違和感の力で観客を巻き込んでいくスタイルを得意としていた。相米監督の方が映画的で、やっぱり大林監督は出身畑であるCMっぽいのかなとも思った)

冒険を経て、子供たちは大人にならざるを得ない。初潮を迎えたブルースの場面。血を砂で隠す→焚き火(火は拳銃や花火でも現れるが、刹那的な命なのだろうか)でその砂を払う→成長の止まらない体を隠すように、母なる海へ飛び込む。

普通の劇映画であれば、ここからの後半は「イノセンスの喪失」、子供から大人へ変化する切なさを主題に置くだろう(死を知って大人になるスタンドバイミーのように)。

だが、最高の夏休みを終えて「髪を切り服を変える」後半で、今作はその逆を行く。大人も子供も「白い」覚醒剤の力でイノセントな幼児へと退行していくのだ。

ヤクザの1人が「時代が違う」とボヤく場面があるが、彼らは社会から取り残されている。ラストでヤクザの権平は有刺鉄線を越える事が出来ず「理想的な夏休み」の中で白いスーツを纏って倒れていく。前半で楽しく享受していたはずの夏休みが、子供たちの心身を飲み込んでしまうラストカットはなかなかエグい。

個人的には、後半はあまり面白くなかった。単純に無邪気なアクションが減ってしまうからだ。前半の夏休み感が盛り上がりのピークに感じ、名古屋のシーン以降は割とぼーっと見ていた。

また、Wikipediaを見ていて面白いと思ったのが、今作が「うる星やつら オンリー・ユー」の同時上映だった点。

高橋留美子は徹底的に抽象化したキャラクター(例えばラムちゃん)で日常を描き、80年代以降の「キャラ萌え」や日本のキャラクター産業の土台を築いた、とも評価されているが、今作はまさに「キャラ化された日常」と「その崩壊」を描いているからだ。

「オンリー・ユー」で示される「日常性」の快楽を今作ラストが否定する事で、同時上映の2作が物語的に噛み合っているとも言えるし、劇場2作目となる「ビューティフルドリーマー」で押井守がやった事を、今作は既に描いていたとも言えるのではないだろうか。80点。
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