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冬の光のpikaのネタバレレビュー・内容・結末

冬の光(1962年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

無神論者なので信仰心なんてものは全くないんだけどめちゃくちゃ好きな映画。最初見たときはなぜこんなにもツボったのか自分でもよくわからず興奮でいっぱいいっぱいだったので今回じっくり考えてみた。未だによくわかってないんだけど、とにかく見てると癒やされる。妙に安心する。
白と黒がバキバキに映えてる画面が大好きなのでベルイマンとニクヴィストの画作りがツボだし閑散とした寒々しい田舎の風景と教会の雰囲気が心地よい。全画面キマってる安定のカメラワークも隅々最高。
筋もシンプルだし『神の沈黙だよ』『信じてもいない神を信じようとして』などと台詞が出てきたり言葉で説明している映画なのでわかりやすいんだけど非常に難しい映画である。

牧師トーマスを演じるグンナール・ビョルンストランドはマックス・フォン・シドーより以前からベルイマン映画の常連として出演してきた名優で、どの作品でも素晴らしいが今作でもビョルンストランドでなければ成立しないほどの存在感を見せている。ビョルンストランドの親しみやすさや不器用な滑稽さが映画に温度を与えている。

オープニングの礼拝のシークエンスは何度見ても面白い。神聖で厳正な儀式であるのに冗談みたいに見える。冗談と言うのは言い過ぎだが信徒が現実に礼拝へ行っているとはいえ主観でイメージしている神聖さと現実に起きている単なる繰り返しの日常という生々しさの齟齬を端的に見せているように思える。オルガンの伴奏者があくびをしたり時計を見たりする仕草が効いてる。
パンを拝領するシーンはロングのワンショットであるのにワインのシーンは一人一人切り替えしていて少しずつズームしている。無感情で繰り返される動作であることが否応なく伝わってくる。
礼拝が終わり牧師に話があると部屋に顔を出した男が去ると『牧師になんの話が』と軽口を言う。その直後神妙な表情の夫婦が信仰に縋るため牧師の元を訪れる。絶望した漁師に対して『神を信じたまえ』と自ら語りながらすぐに牧師は目を逸らす。
イングリッド・チューリンの手紙シークエンスは何度見ても凄い。真正面固定ショットで長々と語らせる演出はベルイマンが多用する演出の一つだが、瞬きすらしていないのではと思うような迫りくる感情に圧倒される。
漁師の妻やチューリンなどは人生の目的(愛すること)があるから信仰は形式的で良い。愛を見失った牧師と漁師は縋るものがなく神を愛せず信仰を失い、絶望してしまう。
窓からそそぐ冬の光が神聖な啓示に見える、というのは天皇即位の瞬間空が晴れ虹が掛かったことが御力だと思うような信仰に似ている。沈黙し不在の神を信じ愛することと目の前の現実を受け入れ他者や家族を愛することは繋がらない。

わーわーと煩わしく泣くチューリンに牧師が『取り乱すな』と怒る。牧師が今まで言わなかったチューリンへの思いを口に出すとうってかわつて静かに涙を流すだけになる。牧師とチューリンがめいめいに本音をぶつけ合った後も以前と変わらず行動を共にする。『断るとでも思った?』
夫の死を知らされた妻は取り乱さず冷静に牧師を拒否する。
橋の場面では音声は聞こえずカメラもロングショットのまま近づかない。
アラン・エドワール演じる使用人(?)からの無邪気な質問に答えられず汗をかく。
チューリンを愛せない牧師の愛した妻の実像を最後に知らされる。

牧師が2度ほど『夢があった』と口にするシーンがあるんだけど、神への信仰は別にして人生に対して目には見えない信仰はあったりはしないだろうか。タルコフスキーの『ストーカー』には様々な解釈があり、私の解釈はおそらく正解ではないのだけれど、自分にはあると信じていたものがなかったことを知る映画でもあるなと勝手に思うところがあって、ある意味この映画で語られる神の沈黙という信仰の対象の不在というのも、目の前にある現実的な愛を受け入れられず目には見えない可能性に縋ろうとした男たちがその空虚さに打ちのめされるとも見れるのではないかと勝手に考えている。中国の核武装しかり、現実的に身に迫る恐怖でもないものに意識を向けてしまう。
ベルイマンが牧師であった父親に対する感情を昇華するために作ったのかもしれないがそんな個人的な思いも信仰心もわからないのに何故か他人事ではないと感じる。

またまとまらずダラダラと書き連ねてしまった。またしばらくしたら見直してまとめようと思います。駄っ文だ!

20160629【1回目】
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