レインウォッチャー

処女の泉のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

処女の泉(1960年製作の映画)
4.0
春の訪れに理由はない。

16世紀、敬虔なキリスト教徒である地方豪族の一家。
愛娘のカーリンは、身重の使用人インゲリを連れ、奉納のため教会へ向かう。道中の森で貧しい三兄弟と出会ったカーリンは食事を振る舞うが、男達が彼女に牙を剥く。やがてそれを知った父親は…

『第七の封印』や『魔術師』といった過去作に通底する(そしてこの後も続いていく)、「神の沈黙」というベルイマンのライフテーマが前面に押し出された作品。深く底の見えない問いを扱いながらもどこか人生の喜劇的な側面を忘れなかった過去の諸作と比べ、痛ましいという他ない事件が起こり、よりシリアスなトーンが貫かれる。

しかし画面はただ重苦しいだけに終わらず、時に息を呑むほど豊かで詩的な陰影表現をもって応えている。人の表情を物凄く塗り分ける室内の明暗、俗世の悲喜劇など素知らぬ顔で森に芽吹く水ぬるむ季節の喜びを、千の色彩を越えて描き出す魔法。まずはこれだけでお釣りが来る。
隣で一緒に観ている人がいたら、数分ごとに停止しては「…見た?今の…」とか言ってしまいそうだ。幸い独り三角座りで観たので、そんな事態にはならなかった(これは涙ではない)

カーリンに降りかかる悲劇、その後に父親がとる蛮行。
いずれにも神は沈黙を守り、父親はそれを糾弾してくずおれる。母親や、同行しながらも悲劇を止められなかったインゲリも自らを責める。そして、最後に起こるささやかな「奇跡」…。

このラストは未ださまざまな解釈を許すと思うけれど、わたしはやはり強烈なアイロニーを感じるところだ。なぜなら、ようやく奇跡(らしきもの)が起こるのは、絶望を見せた父親がそれでも信仰を糧に膝を立て直し、「ここに高級な教会を建てる」と誓った「後」だからだ(序盤の召使いたちの会話が伏線として効いている)。
宗教には人生の理不尽や不幸の受け皿として機能する側面があって、カーリンの喪失を転嫁する母親やインゲリの思考もまたその一つだろう。突然の信じ難い事実に直面するより、自責に理由を求め、犠牲者を神聖化した方が楽になれることもあるからだ。

しかし、カーリンは可憐で純粋であると同時に世間知らずで、愚かでもあった。また、両親ほど信仰への献身性を持っていたようでもない。
このような宗教がもつ「偏り」を突き、居るとしたら果たしてどれほど残酷な神か、むしろ居ないほうがマシではないのか…と語りかけているような気がしてならない。

劇中では、現世に縛られた人の人生を、室内に留まり震える煙になぞらえて語られる場面がある。
上へ立ち上る煙と対比して思い出されるのは、下へと自由に流れる森の清流。限られた室内から救い出すのが神だというが、そもそも天井という枠(限界)を設定したのも神ではないのか。

いま、わたしたちが神なるものを信じていようと、神以外の何か(金や仕事、家族の中で果たす役割でも)を信じていようと、それが果たして真に幸福に根ざすものであるか…をいま一度考えさせる鋭さがあった。