シュトルム凸映画鑑賞記録用改め

大いなる幻影のシュトルム凸映画鑑賞記録用改めのレビュー・感想・評価

大いなる幻影(1937年製作の映画)
4.2
これは傑作ですね。
第一次世界大戦、ドイツ軍の捕虜になったジャン・ギャバンらフランス軍将校たち。騎士道精神の残る中、ドイツ兵士と交流を深めながらも、祖国への忠誠心の発露として、脱走計画を進めていく。演芸会の出し物で女装する兵士に、周りの捕虜仲間が粛然となるシーン…女性の存在こそが自由で自然な社会のシンボルであり、その欠如が自覚されることで、虜囚の我が身を実感する…が印象深い。
そして、ドイツ軍の観客も巻き込んで最高潮に盛り上がる宴のクライマックスで、フランス軍が係争地を奪還したとして、ラ・マルセイエーズの合唱が始まり、そのナショナリズムの高揚する感動が、国境を越えた交流を断ち切るという図式。ここが前半の山場になっている。
ジャン・ギャバンの主人公を超えて印象深いのが、仏独両国の貴族階級の高級将校。貴族同士の連帯感から騎士道精神を遺憾なく発揮しながら、互いの祖国への忠誠を尽くす高潔な男たち。そして、そんな貴族階級がやがて消えゆくことを自覚する二人でもある。貴族や階級という国境や民族を超えた属性と共感が消滅してしまえば、そこには国家内の平等という美名の元に、むき出しの民族ナショナリズムの相剋の時代がやってくることを第二次世界前夜の段階で鋭く示唆している。
少年兵の捕虜を「まだ子供なのに」と悲しむ老女、フランス人たちの実直な友人となった収容所看守、そして夫や兄弟を戦場で相次いで亡くしながらもフランス人脱走兵を匿い助ける主婦。この作品のドイツ人の描写は優しく、人間性にあふれている。こうした軍民ドイツへの好意的な描写。冒険小説では「誇り高きドイツ」(連合軍側からドイツの誇り高き軍人を描く、一種のフェアプレイ精神に基づく作品群と私は考えている)というのは一種の定番ジャンルでさえあるが、本作はその嚆矢なのかもしれない。
また、主人公の後半の道連れとなるユダヤ人戦友。彼もまたクリスマスの飾りで「イエス様」の人形を作り、幼女にプレゼントする。イエスはユダヤ人にとっては兄弟なのだとさえ言う。これが、ジャン・ルノワールの徹底したヒューマニズムなのだろう。
そして最終盤部、映画タイトルの由来となる有名なセリフのやり取り。「この戦争で戦争は終わるのか」「それは幻影だよ」
第一次世界大戦が、「戦争を終わらせるための戦争」と呼ばれていたのは大いなる幻影だったということは、37年の段階ではもう誰の目にも明らかだったのだろう。それをあえて最後のやり取りに持ってきて、タイトルにもする。幻影であるのは重々分かっているが、諦めたくない。リアリズムと理想主義の儚い接点に込められた、多くの人の共通する想いをそこに見ることが出来るのではないだろうか。