晴れない空の降らない雨

大いなる幻影の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

大いなる幻影(1937年製作の映画)
3.8
■ヒューマニズム、反戦
 「ルノワールの映画」としてみると、男女入り混じれる喜劇的で下品な恋愛模様や、自然も人間もいきいきと輝くロケーション撮影がなくて物足りない。のみならず、奇妙なことに、「脱出もの」として必要なドラマやサスペンスもなければ、「反戦映画」として戦争の悲惨さをことさらにアピールすることもない。
 前者に関していえば、最初に行われたはずの空中戦も、地下トンネルによる脱出の試みも完全に割愛されてしまっている。それによってルノワールは、映画が本当に見せたいものから観客の注意を逸らすまいとしているものと思われる。つまり男たちの固い友情であり、国境を越えうる友情と愛情である。それだけでなく映画は、名もなき人物にもしぶしぶ戦争を遂行しているようなセリフを言わせる。こうした描写の積み重ねによって、「誰もがどこかの国民である以前に人間だ」というメッセージを作中に行き渡らせている。つまりはヒューマニズムというわけだが、それが反戦映画としての本作の方法である。とりわけラストで2人を見送る兵士のセリフは感動的にかっこいい。このラストは、白銀世界を進む2人を遠景で捉えた開放的なショットと、これまでの窮屈な画面との対比も見事である。こうしたフレームの対比演出は、その後も脱出ものでしばしば模倣される。

■道化、喜劇
 映画にとっては、国と国とを分ける縦の境界線よりも、身分・階級を隔てる横の線のほうが重要なようである。これは特に第2部における、独仏の貴族階級出身者どうしの友情描写によって強調されている。映画は愛国心を否定しないが、彼ら職業軍人たちにとって、それはアイロニカルに受け止められている。もはや彼らは愛国心がフィクションであることを理解しているが、しかしそれを捨ててしまえば自分たちに何も残らないことも心得ているために、愛国者を演じるのである。しかし、その際も映画はひねりを入れる。この貴族階級出身の大尉は愛国者としての役割を全うするに際し、笛吹きの道化を演じることで行うのである。命を賭した陽動作戦のはずが、明らかにスラップスティック的追っかけへと逸脱しているこのシーンは、大尉の精神的解放こそがここで描きたいものだと理解するに十分である。
 このシーンは、本作におけるルノワール的としか言いようのない箇所でもある。ルノワールはチャップリンの影響を受けており、彼の映画ではたいてい、長めの追っかけ芝居が、ストーリー進行に差し障る勢いで差し挟まれる。また、笛という小道具にも注目していいだろう。これもルノワール映画で頻出するし、奏者=挑発者が最後に死に至るのも例のごとくだ。ほかの喜劇的要素として女装した捕虜たちの芝居があるが、このシーンのように舞台を登場させるのもルノワール映画にはよくある。ここでは、舞台(演劇)は虚構の空間として、現実(映画)の出来事の効果を高めるために、――つまり、突然の戦勝の知らせによる中断と、即座のラ・マルセイエーズ合唱という展開を際立たせるために、挿入されている。