映画漬廃人伊波興一

汚れた血の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

汚れた血(1986年製作の映画)
4.1
渇望しながらも疾走する。
レオス・カラックス「汚れた血」

例えば(映画)を・・
突風が吹くたびに丘の上、崖っぷちギリギリのところで揺れる岩に見立てます。
そんな危険なものに普通なら近づいてならぬ筈だが、あろうことか岩の上にスプレーで鳥の絵を描き(これでコイツもまともに飛べるぞ)とでも言うが如く、アレックス=ド二・ラヴァンをデビッド・ボウイの曲に乗せて乱舞いさせる呆け者・レオス・カラックス。
更にその呆け者は、(コイツが飛んだらオレだって一緒に飛ぷぞ)と、風に合わせて岩をぐいっと押す。
当たり前ですが鳥が鳥がでしかなく、人間が人間でしかないように、岩は岩でしかない。

呆け者・カラックスはあろうことか絵の鳥にもう一枚羽根を加えるようにジュリエット・ビノシュというイカれた女を乗せ、さらに力任せに岩を押す。

その振動のせいか、ぐらりと傾いたのは当の岩でも、岩上のラヴァンでもビノシュでも呆け者・カラックスでもなく、まさに全てを包み込むジャン=イヴ・エスコフィエの斬新な彫琢で構築された夜の町・パリそのものです。

木々をなぎ倒し、地変と錯覚した女子供や老人を狼狽させ、尚も熱(いき)りたちながら落下し続け自動車の屋根をペシャンコにし、19世紀の芸術オブジェを破壊し、凱旋門どころかエッフェル塔まで破壊しそうな勢いで滑走していく。。
そんな落下する岩など見れば誰もが(見ろ、無茶な映画ってのはこのザマだ)と、思う筈ですが、カラックスは(これこそが見事な飛びっぷりだ)と喝采します。

そしてカラックスを愛する私たちは、思春期の痛みや孤独、そして自由への無限大の渇望を、愛の疾走感の中に刻み付けるように強く描くとは、まさにこういうことなのだ、と思うわけであります。