優しいアロエ

汚れた血の優しいアロエのレビュー・感想・評価

汚れた血(1986年製作の映画)
4.5
〈死に際の世界を穿つ愛の衝動〉

 ハレー彗星の接近する地球。沸騰したパリ。バタバタと命を落としていく愛を知らない人たち。そんなレオス・カラックスの構築したディストピアが、フレームの内側に映り込むことはない。異常を来した世界がほとんどセリフによってのみ言及されていく。なんて観念的な世紀末なのだろう。

 世界の全貌を見せない代わりに、カラックスは人物の顔面や事物を世界の断片としてフレーム内に窮屈に押し込んでいく。「結果」を抽出し、繋ぎ止めていく。これは私の狭い見識のなかだとキエシロフスキの映像スタイルに近い。たとえば『トリコロール/青の愛』のオープニング。美しくも息苦しい映像感覚である。だが、そんな詰屈な世界に風穴を開けるようにして、フ〜と気まぐれに息を吹いてみせるのが若きジュリエット・ビノシュなのだ。

 青年は愛に疾走する!アヴァンギャルドな映像の隙間で男と女は自由気ままに戯れる。腹話術に手品、シェービングクリーム。なるほど、ゴダールに憧れたという早熟の作家の片鱗が見えてきた。

 本作の主演を務めるドニ・ラヴァンは、カラックスの分身らしい。背の低さとクセのある遠心顔だけがその証拠ではない。町山智浩『映画ムダ話』によると、カラックスは当時ビノシュと付き合っていたし、“子どもの頃に沈黙しつづけていた”という設定も自身の体験に基づいている。おまけにラヴァンが一貫して担う「アレックス」という名前はカラックスの本名なのだそうだ。

 というわけで、愛にまつわる難解な物語の正体は、極めて赤裸々とした私小説だった。その一方、本作は片思いの連鎖によって群像的なニュアンスも演出。抱擁力のあるラストへと導いた。特に、ラヴァンに恋するジュリー・デルピーがビノシュとよい拮抗を見せる。物語は後半、窮地に立たされたラヴァンは捨ててきた過去に文字通り“拾われる”のだ。ここから、カラックスもどこかで過去の女への未練を抱いていたのだろうと邪推が進む。

 さて、寡作のカラックスに対して、ビノシュは世界へと飛び立っていったというのが一般の見解。でも彼女はもう少し年齢を重ねてからのほうがいい。本作だと可愛く撮れすぎてて居心地悪くなった。

R.I.P.ミシェル・ピコリ。
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