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拾った女(1953年製作の映画)
3.8
 国際都市ニューヨークの雑踏の中、到着する列車の中で男と女は出会ってしまう。女はどこかで新しい運命の出会いを探しており、男はスリのプロとしてただ単に今夜の獲物(サイフ)を探している。やがてすし詰めになった列車内で男は近づき、彼女と何十秒も見つめあったまま、彼女のバッグからいとも鮮やかにサイフを抜き取る。女はサイフを抜き取られたことに気付かず、まだ男の目をずっと見つめ続けている。異変に気付いたベテランの刑事は男を追おうとするが、すんでのところで列車のドアが閉まり逃げられてしまう。そのサイフの中に驚くべきものが混じっていたことで、ただのスリだった男は一転し、悪の組織に追われる身となる。サイフにお金と一緒に入っていた「ある物」の正体が、アメリカ版でのマイクロフィルムなのかフランス公開版での麻薬なのかはこの際あまり問題ではない。社会の底辺に生きる前科三犯のスキップ・マッコイ(リチャード・ウィドマーク)にとっては、彼らが必死になって追いかけてくるのだとしたら、それは願ってもないボーナスをふんだくるチャンスであり、そのフィルムに何が写っているのかをいち早く解明しなければならない。警察は元犯罪者の彼にも下手に出て、マイクロフィルムの行方を探ろうとするが、マッコイの頭脳は警察が現行犯でなければ逮捕出来ないことなど重々承知しているのである。こうして彼は組織はおろか、盗みとった女や警察にも知らぬ存ぜぬを突き通し、組織の次なる展開を高みの見物をするのである。今作は赤狩りのメタファーを下敷きにした堂々たるフィルム・ノワールなのだ。

前作『パーク・ロウ』でも主人公とライバル新聞社の社長同士の突然のキスがあったが、今作でもスキップ・マッコイとキャンディ(ジーン・ピータース)はマイクロフィルムを取り戻すための再会の場面で、出会い頭に突如キスをする。女にとってあの列車での出会いの場面での眼差しは尋常ではない恋心を予感させたが、男の目は女ではなく、金を見ていたはずだった。だが唐突に二人は正面衝突のように出会い頭に恋に落ちる。この強引さがサミュエル・フラーがフラーたる所以である。追う者と追われる者のドラマの中に、フラーは個性的な脇役を媒介者として忍ばせる。それはスキップ・マッコイにつながるただ一つの情報を有する最下層の情報提供者にして、1ドルのネクタイ売りのモウ(セルマ・リッター)に他ならない。警察はまず彼女を呼び出し、スキップ逮捕に繋がる重要な情報を得ることになるのだが、そこで年老いたスリで情報屋である彼女は、老い先短い自分の将来を憂う、「共同墓地になんか入りたくない」と。

フラーは世の中の権力に対し唾を吐き、警察を何とも思っていない主人公と、この老い先短い婆さんとを対照的に描くことで、最下層に生きる人間のアンビバレントな生き様を描こうとしている。だがモウは同時にスキップの生き方を承認し、応援してもいる。その本音の部分が窺い知れるモーとキャンディの会話の場面があるからこそ、モーの惨劇は活きるのである。自らのより良い老後のために、路地裏でネクタイを1人1人に売り歩いて帰路に着いた彼女は、おもむろに蓄音機に針を落とす。音楽を聴きながらベッドに横たわる彼女の横に突如、土足でベッドに横たわる足が唐突に出現する。マイクロフィルムの在り処がわからなければと窮地に陥る男は、婆さんの言葉に耳を傾けることはない。単純なイエスノーで応えられなければ、死んでもらうしかない。今作における最も悲しい射殺シーンがそれである。クライマックスの再び駅構内に戻っての烈しいアクションは、B級作家サミュエル・フラーの面目躍如たる場面である。これまで権力に楯突き、一貫して中指を立てて来た男が、愛する者を守るために、正義のために立ち上がる。そこには共産主義もリベラルもどちらか一方に舵を切ることのないフラーの作家としての職人技が光る。何より今作の主人公であるスキップ・マッコイという男は、新聞紙を事件・事故や政治・経済を知るためではなく、ただ単に自分の欲望の小道具として使うのである。彼の住む海沿いのほったて小屋のロケーションもさることながら、リチャード・ウィドマークの純粋な2枚目ではないアウトロー然とした佇まいに何度観ても痺れる。サミュエル・フラー初期の傑作中の傑作である。
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