伊藤和典が脚本を、押井守が監督を担った1993年公開のアニメ映画で、ゆうきまさみによる原作漫画やアニメーションシリーズがあるが、世界観や登場人物をそれらと共有しつつ、この作品独自の物語になっている。
ある人物によって引き起こされた関東エリアでの爆破事件によって、かりそめの平和を享受していた東京に「戦争」という状況が発生する。
たった一発のミサイルによって引き起こされた混乱が、長く戦争という状況から遠ざかっていた日本人の生活や意識をどう変容するのか、もしくはしないのかが、完全にフィクションかつアニメーションという表現手法でありながらも、凄まじいリアリティと緊迫感をもって描き出される。
この状況を作り出した首謀者の目的は何か、状況の終着点には何があるのかという謎を追う形で物語が展開していく。
原作漫画やアニメーションシリーズは、作品に登場する警視庁のレイバー (平たく言えば人型ロボットの警察車輌) の操縦者となる警察官が主人公だったが、この作品の主人公はその上官達になっており、レイバーの操縦者や個性的なその同僚達は完全に脇役に回っている。
正義のロボットが悪役ロボットと派手に闘って勝つのだといったシンプルな脚本では全然なく、むしろそういったパートは全篇のうちほんの10分程度で、殆どのパートは「戦争」という状況そのものと、会話劇中心の人間ドラマで構成されている。
一見すると地味極まりないようにも思えるその人間ドラマの、繊細かつ重厚な演出の筆致が素晴らしい。
物語が進むにつれて遂に事態の収集がつかなくなり、自衛隊の部隊や戦車が東京の各地に展開するという、とてもSF的なシーンがあるのだが、その状況を捉えるアングルや風景の、強烈な非日常感を帯びた描写に驚かされる。
いつかこういった風景が東京に現出する日が来るのかも知れないという恐怖と、もしかしたら日本人はその状況に直面してもなお現実として受け止められないのかも知れないという不安と、もしくはそういった風景すら私達は数日で慣れてしまうのかも知れないといった痛覚麻痺のような焦燥を感じた。
展開する自衛隊を眺める一般市民はもとより、自衛隊員本人達ですら、この景色は本当に現実なのだろうか、幻ではないのかという表情をしているところに、凄まじいリアリティがある。
なぜなら、自衛隊員を含む私達日本人の多くは既に、戦争という状況を実体験したことがない世代なのだ。
川井憲次が手掛けた劇伴の素晴らしさも特筆すべきレベルで、パッと見の派手さには欠けながら実は重厚な画づくりを時に凌駕するほど強烈な存在感を纏った音の演出に圧倒される。
中盤にある「幻の爆撃」のシーンと、終盤にて東京の各地で発生するピンポイント爆撃のシーンの劇伴は特に見事で、これらのシーンの緊迫感を越える演出はなかなかないのではないかと感じる。
日本を象徴する東京という都市の実存への問いが、この作品のテーマなのだろう。
そして、劇中で状況を発生させた首謀者の真の狙いと、押井守がこの作品の鑑賞者へ提示したかった画は、きっと同じものなのだろうとも思う。
東京には、文明の質量やそこに生きる人間の息遣いが確かにありながら、ありとあらゆるものが虚無か幻のように感じられる瞬間もある。
戦後の焼け野原から数十年を経て、世界最大級の都市へと変貌した東京が立脚しているこの土地の地層には、どんな歴史が積み重なっているのか、もしくはいないのか。
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