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ストレンジ・デイズ/1999年12月31日のBATIのレビュー・感想・評価

4.0
「ストレンジ・デイズ 1999年12月31日」は1995年に公開された作品で、原案/脚本/制作はジェームズ・キャメロン。監督はキャメロンのパートナーであったキャスリン・ビグロー。キャメロンとは1991年に離婚しており、その後も交流関係は続き、そのメガホンをビグローが手渡された格好になった。

世紀末を迎えようとしてるロサンゼルスにて、レイフ・ファインズ演じる元警官のレニーはスクィッドという、頭にセットしてヴァーチャル・リアリティを楽しむ端末を売りつける売人で、その内容はセックスやバイオレンス、スリルを自身の体験として楽しむというインモラルなものだ。近年でいうと「サイバーパンク エッジランナーズ」でも似たようなVR端末が出てくるし、「レミニセンス」でも過去の記憶をたどり楽しむという大型端末装置も出てきた。そもそもがウィリアム・ギブスンの小説における電脳空間をヒントにしている。

ジャンルとしてはサイバーパンクではあるが、この世界における電脳化はブロードバンのインターネットもまだ普及していない時代で「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」のような総合リンクするようなシステム化社会ではない。勿論スマートフォンもモバイル端末のインターネットも存在しない。あくまで一部で流通されるイリーガルな端末であるスクィッドが世界と物語の中心にある。

ある日、元恋人フェイスの友人アイリスから彼女自身およびフェイスの身の危険と救済を求める声がかかるところから物語がはじまる。

レニーはスクィッドのメモリデータのディスクを売る傍ら、自らもジュリエット・ルイス演じる元恋人フェイスとの想い出をスクィッドで再生
させる。恋が終わったことに未練がましく浸るその姿はあらゆるドラッグのそれよりも依存質で救い難い。

とにかくこのレニーという男は未練がましく情けない。肉体的な強さも格闘技術もない。スクィッドを裏販売しているだけで、スーパーサイバーハッカーであったり天才的なエンジニアというわけでもない。そこが本作の面白いところでもある。それまでの80年代からのハリウッドはシルベスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガーなどの身を持って体をなすという屈強な男たちの映画が数多く作られてきた。本作と同じサイバーパンクジャンルの「ブレードランナー」のハリソン・フォードも劇中の格闘能力こそ高くはなくともセクシーな男性像を携えていた。

そういったジャンルアクション/サスペンスの定型であった男性像、男性性はことごとく否定されたのがレニーというキャラクターだ。自身に戦闘能力がないため、彼はアンジェラ・バセット演じる親友のメイスをボディガードとして雇っている(またこのアンジェラ・バセットのアクションが格好いい)。強い女性に護られる男性主人公という近年でもあまり例を見ないサンプルなのだ。なおかつ、レニーの元恋人フェイスは歌手を目指すも生活のために娼婦をしており、なおかつ音楽会の大物の愛人となっている。異性愛規範的に見れば情けない男としてしか見れないだろう。

そしてこの作品の事件の本筋よりも実際のテーマはレニーがフェイスのことをふっきれるまで、それが年の終わりと共に訪れ、そして長年見レニーを守護者として守り、なおかつ見守っていたメイスの感情に気づき、結ばれるラストで終わる。この流れとラストが当時はすこぶる評判が悪かった。ヒロインであるフェイスと結ばれないラストがこの情けない男の物語としてはカタルシスがないものと受け止められたのだ。だが私はこの自分の精神に強く紐づけられた思い出と訣別する、感情を乖離させて単なる「過去」として処理できるようになるまでの物語として見た。精神的にまだ青年期のままだったレニーがそれを終えていく物語が「ストレンジ・デイズ」なのだ。様々な出来事が1日のうちに起こり、時代が終わり新世紀が始まる「奇妙な1日」なのだ。

このレニーという主人公はジェームズ・キャメロンのオルターエゴのような造形に感じる。そんな姿はひょっとしたらキャメロン自身にビグローへの過去の想い、あるいは今までの恋愛遍歴、結婚と離婚を繰り返したキャメロンの姿が織り込まれているのかもしれない。そんな映画であったと仮定した場合、それを元妻に監督させるとは一体どういうことだキャメロンお前そういうとこだぞと言いたくなってしまうのだが、とにかくこの映画はヒロイックな方向には進まない。ヒロイズムは逆にジュリエット・ルイスとアンジェラ・バセットが体現する。ジュリエット・ルイス演じるフェイスの演奏ステージのシーンはマリリン・マンソンのようなシアトリカルロック的でありつつも、ニルヴァーナやホールのようなシアトルのグランジバンドもモチーフにしている。フェイスのメイクも衣装もホールのコートニー・ラヴがモチーフだろう。この演奏シーンが圧巻で映画そっちのけでフルステージを観たくなってしまう。

「ストレンジ・デイズ」は混乱が介在している。ジェームズ・キャメロンから託されたこの映画のテーマをどのように受け止め、どう表現していいかわからなくなっているキャスリン・ビグローの混乱だ。だが、どう料理していいのか分からないが託されたならば好きにするとビグローの演出センスが端々で光るものとなっている。スクィッドをつけて過去の思い出に浸るレニーをはじまりに、凶悪犯がフェイスの友人アイリスを暴行し、スクィッドを取り付けさせてVR上で脳の映像を同期させながらレイプして殺すという人間とは思えない残虐で異常なシーンが出てくる。こんな恐ろしいシーンを撮影したビグローの心境とはいかなるものなのか。そもそもビグローは「ブルー・スチール」の頃から残虐かつ陰湿なシーンを演出するのが恐ろしく上手い。その頂点ともいえるのが「デトロイト」しかり本作だ。

そして特筆するべきが終盤の1999年12月31日のロサンゼルスが時代の終わりを迎えようとするその夜だ。群衆が街の中心に大挙し年の終わりと始まりを迎えようと狂乱にあけくれる場面をCGではなくエキストラを使って実演させたこのシーンは実際の1999年の末日のカオスが確かに存在している。人と物量にものを言わせた圧倒感。世紀末であるという終末感と危機感は90年代までは「ノストラダムスの大予言」によって蔓延していたが、それと同時に今までのものが終わり新しい世界が待っているという期待と希望に満ち溢れていたのが90年代後半といえよう。その不安と混乱とオプティシズムがこもっている時代の空気をパッケージにしたのが本作であるといえよう。
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