「本当は怖い崖の上のポニョ」みたいな話には興味がなくて、そのような解説や考察を拒絶しきったのが本作の作劇なのだと思う。
作家の技術が極まった先には「スクラップ・アンド・ビルト」でこれまでの表現を破壊する方向性というのは宮崎駿以外にも数多ある。
ただ「もののけ姫」以降の宮崎駿の作家性はより短いスパンで破壊と再生を繰り返しているように感じるのが本作。
「難解」とされるものにもパターンがあって。誤解を恐れずに言えば、本作は「緩い」作風で、突き詰めた論理の綻びによる破綻ではなく、最初から破綻に対しては意識すらしていないぐらいにディテールの生合成やメッセージに関しては無防備過ぎるほど「画」にしていると言える。
海に住む金魚。
水道水の中に浸される金魚。
名前で呼ばれる親。
災害時に避難指示を無視して家に帰る親。
父親の不在。
両親との間を繋ぎ止める子供。
など。
現実の世界で、宮崎駿が嫌悪し歪に感じる現代のダークサイドを、ストレートに放り込んでくる。
恐らく宮崎駿は絶望しながらも期待していた「人が人らしく生きる」前提である「生きる」という意思すら、軽視されつつある現代に、寓話という形でメッセージを伝えることを諦めたような節がある。
むしろ。
本来のアニメーション的な抽象性であったり、カオティックなイマジネーションやビジュアルであったりという「画面のエモーション」が爆発する寓話性の中で、寓意のないメッセージを羅列するアンビバレントさ、というのに彼の絶望の深さを感じる。
前作の「ハウルの動く城」以上に、もはや「伝えたいものを伝える意志」が消え去った自我すら、一定のエモーションで作品化してしまう虚無の極み、のような作品だし、現代批評として、そんなに間違ってないとも思うのが切ない。