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浮草の小のレビュー・感想・評価

浮草(1959年製作の映画)
4.1
小津安二郎監督作品を、角川シネマ新宿の「大映女優祭」で初鑑賞。真正面を向いた人物のバストショットがやたらに多いなあと思ったけれど、これが「小津調」と呼ばれる独特の演出・映像の一部なんですね。

「小津調」については本作を1回見たくらいではわかりようがないので、今後じっくり考えつつ、知識を蓄え、小津監督の作品を何回か見ているうちにジワジワ味わえるようなれば良いなあ、と。

本作のあらすじは大体次のよう。志摩半島の小さな漁村に旅回り一座がやってきた。座長の座長の駒十郎(二代目・中村鴈治郎)は一膳飯屋のお芳(杉村春子)のもとを、いそいそと訪ねる。やがて一人息子で郵便局に勤める清(川口浩)が帰ってくると、“伯父さん”の駒十郎はとても嬉しそうで、その後、何度も訪れては清とふれあう。

その様子を知った一座の看板女優すみ子(京マチ子)は激しく嫉妬。妹分の役者加代(若尾文子)に清を誘惑するよう頼み込むと、2人は思惑通り恋仲となる。その後、客が不入りの一座に問題が起こり、駒十郎は旅役者を辞め、お芳と清の3人で暮そうかと思うものの、清と加代は、もはや離れることができない仲となっていて…。

駒十郎は自らの職業である旅役者を、勤め人よりも低い地位の人間と決めつけている。だから清が郵便局に勤めていることをとても喜び、加代との関係を認めようとせず、父であることを自分からは決して伝えようとはしない。

駒十郎に当時の空気を感じるのだけれど、そこにガツーンと一発くらわせて、もうそんな時代じゃないんだよ、というのがこの映画のテーマなのかなあと。単に色恋沙汰の物語ではない深みがあることに加え、緩急の効いた演出や豪華俳優陣の演技により、退屈せずに楽しめる。

ところで「小津調」については今後じっくり考えると書いたけれど、前々から気になっていたことを思い出したのでメモ代わりに(本作や小津監督からかなり離れた内容になります)。

本作で感じたのは台詞の調子が芝居っぽく思うようところがあったこと。当時のスタイルなのかなあとも思ったけれど、ウィキペディアの「小津安二郎」の項目を見ると次のようなことが書いてあった。

<小津は俳優の配置やカメラの動きだけでなく、俳優が微妙で正確な動作を完璧に行うことを求めた。また、セリフの口調やイントネーションなどは小津が実際に演じてみせて、俳優に厳密にそのとおり演じさせた。>

そして、以前、濱口竜介監督の『ハッピーアワー』の感想文を書き直そうと思って(まだ実行していませんが…)監督のインタビュー記事を読み漁り、その時記憶に残った記事を思い出した。(長めの引用ですが、削れなかった…。)
(http://www.nobodymag.com/interview/happyhour/index1.html)

<具体的な演出はたったひとつ、「本読み」でした。『ジャン・ルノワールの演技指導』というジゼル・ブロンベルジェが監督した短編がありますね。ブロンベルジュがルノワールの演出を体験する。この中でルノワールが監督の彼女に本読みをさせます。そのときに「電話帳を読むみたいに」読むよう言うんですね。感情をすべて排し、イントネーションや抑揚を排して読むんだと。それを何度も、何度もやりなさいと。この映画の中で、彼女が冒頭と最後に同じ場面を演じるんですけど、それが全然違うものになっていて、これがもう凄いんです。それを見たことが「本読み」という演出に惹かれた最初です。その後ジョン・カサヴェテスも、ロベール・ブレッソンも、小津安二郎も撮影前に本読みをしていることを知りました。小津の場合は、最初に小津自身が演者の前ですべてのシナリオを読み上げるという形の本読みをしていたそうです。この本読みという演出が演者にどう作用するものなのかわからないけど、これだけ自分の敬愛する作家がすべてやっているのであれば「きっと大事なことなんだろう」というぐらいの軽い気持ちから採用しました。>

<暗記をするだけではなくて、その読んでいるときの声の分厚さというものを、本を閉じてもそのまま残るまで行うわけです。抑揚を欠き、感情を欠き、ただものすごく言葉を分厚い声で言えるぐらいになるまで本読みをします。このように本読みを徹底するのは特に中盤からですが、そうすると、シーンが驚くほどの次元に達するように思えました。本番は受け取ったものに対して素直に反応して全然構わないし、ニュアンスが加わっても構わないと指示しています。彼女たちのように本読みをしてテキストを覚えた人たちは、本当に一言一句そのテキストのままに話すんです。『ハッピーアワー』を編集しているときに映像としてはOKだったけど、声としてはNGといった場合、別のテイクから声の「OKテイク」をもってきてハメ替えるということをよくしました。このとき、基本的に映像と台詞ぴったり合うんですね。つまり、すごく一定なリズムになっているんです。そして、この「OK」の声は映像の見え方を変えてしまう。それこそ一段厚みを加えるように見えて、驚きました。>

<役者さんたちの場合は意味で覚えています(引用者注:プロの役者のこと。『ハッピーアワー』は演技経験のない素人が演じた)。同じように本読みをして撮影をしていても、本番ではテキストの台詞そのままではなく、意味としては間違ってない別の台詞が出てくるのを聞いて、そう思いました。そのときにテキストではなくて意味を覚えているとそのシーンが、発展しきらないということはあるような気がしました。>

俳優にどう演じさせるかということについて、<小津は自分の中でイメージが完成されていただけに、俳優が自由に「演技」をすることを好まなかった>(ウィキペディア)。世界的に評価の高い溝口健二監督は俳優自身に考えさせ、監督が思うような演技になるまで、何度も繰り返させた。濱口監督は台詞を俳優自身の言葉にすることで、演技を自然に、リアルに導いていく。

演技・演出は俳優と監督との闘いなのかもしれない。演技を俳優に任せてしまえば、映画は俳優の力量を超えられない。小津、溝口の両巨匠は俳優の力量を超えた演技をいかに引き出すかについて、妥協なく、徹底していたのだろうと思う。

監督が俳優に何度も何度もダメ出ししづらくなっているのではないかと思われる現代。濱口監督は、巨匠監督たちの演出手法を今の時代にマッチさせるとともに、一段上に引き上げたのではないかと感じるのだけれど、小津監督作品をもっと見たうえで、また良く考えなきゃと。

●物語(50%×4.0):2.00
・色恋沙汰に加え、自分自身を大切にしていこうよ、みたいな当時の社会の雰囲気を感じるところに深みを覚える。

●演技、演出(30%×4.5):1.35
・全然退屈しない演出。正面向かって語られるのって、結構印象に残る。

●画、音、音楽(20%×3.5):0.70
・やっぱり構図が良いのかな。
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