【自己投影】
世界三大映画祭の一つでもあるヴェネツィア国際映画祭。日本では三作目となった1997年の金獅子賞受賞作品だ。
監督、脚本、編集、「挿入画」、演出、主演は北野武。音楽は久石譲が手掛けた。
あらすじ
不治の病に身体をおかされている妻(岸本加世子)を持つ刑事・西(ビートたけし)はある日、凶悪犯の自宅張り込みを同僚の堀部(大杉漣)からの提案で代わってもらい、妻の見舞いに向かう。そこで妻の容体を聞いた西は絶望するが、更に堀部が犯人に撃たれたとの知らせを受ける…。
もう、あらすじでわかるだろう
「生と死」と「血と暴力」が充満している。
だが、それ以上に満ちているのは
「優しさ」と「愛情」そして「遣る瀬無さ」だ。
その振り幅こそが今作の魅力でもある。
いつもの監督の作風らしく、演技をさせず「そのまま」を出来るだけ見せている(アウトレイジシリーズ除く)。リハーサルを余り行わないのもこれが理由かも知れない。
中村役を演じた寺島進は北野作品の常連だ。他作に出演した時に、いつもの如く演じたら「やる気があるのか!」と罵倒されたエピソードがあるほど。
良く言えば自然体。悪く言えば演技が下手な人への救済措置。
それが理由で、たけしを含めた常連達のキャラクターは、他の作品でもどこか似通っている。
物語は最初から最後まで予想の範囲内。恐らく皆もそのはず。でも
「ハイハイ、やっぱりこっちねー」の方ではなく、「駄目だ、そっちは駄目だ。」のほう。
今作の終着点には二つの台詞が出てくる
その、人生で幾度となく発するであろう短い言葉と言葉との
「間」
その表情に
その抑揚に
その行間に
人生の喜怒哀楽が垣間見える
その「後」のシーンの方がよく話題に上がるが、今作の全てはここに詰まっていると思っている。
何故この作品のタイトルが、花火でもHANABIでもなく「HANA―BI」なのか。それを考えると、好きな作品ではあるが未だに胸が締め付けられる。
これは北野武がある講演で話した事だ。
「テレビなら誰がなんといっても自分を通すんだけど、映画だと妥協しちゃうんだよね」その理由は「観る人にとってテレビは無料だけど、映画はお金がかかるから、自分の独りよがりを押し付けるわけにはいかない」と。
その中でも、本人が一番思い入れがあると語る様に、精神的に不安定だった時期の自分を投影させたのが「ソナチネ」だ。そして今作にも端々に自己が見え隠れする。
根幹にある監督の「刹那的な独りよがり」の自己表現。いつか出し切った作品が観てみたい。