レインウォッチャー

ミツバチのささやきのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ミツバチのささやき(1973年製作の映画)
5.0
死は蜜のにおい、生は蜜の味。

1940年代のスペイン、さびれた村の公民館に映画『フランケンシュタイン』がやって来る。引き込まれるように映画を観ていた少女アナは、姉イサベルに繰り返し尋ねるのだった、「なぜ怪物はあの子を殺したの?」「怪物もなぜ殺されてしまったの?」

詩的…などという言葉を越えた、この世のものと思えないほど美しい画の数々。
特にアナたちが過ごす屋敷の中、ミツバチの巣と同じハニカム模様の窓から垂れる琥珀色の光に守られ時を忘れた世界。映画とはつまるところ連続的な絵画であり、陰翳の芸術なのだということを思い出させられる。過言でも例えでもなく、見ているだけで涙が出てきた。

内容は言葉少なで、目立った娯楽も少ない牧歌的な田舎における少女たちの日常風景をぽつぽつと切り取るように進んでいく。しかし当時の世相を踏まえた体制(フランコによる独裁政権)への批判を巧みに忍ばせたりもしていて、明快な起承転結は避けられているようにも見え、こちらに解釈を委ねる部分が大きい。

わたしは、ああこれは「memento mori(メメント・モリ)」なのだ、と受け取った。
もとは中世以降のヨーロッパ美術界隈で広まった「死を忘れるな」という言葉だけれど、この映画にもまた常にうっすらとした死のにおいがつきまとっている。学校の授業で習う人体の解剖図、父親と見つける毒キノコ…
(アナたちの父の部屋にかかっている絵画の隅には髑髏が描かれていて、これは代表的な「memento mori」モチーフだと思う。)

アナが『フランケンシュタイン』に揺り起こされたのは「死」の概念。彼女の中には生まれて初めて「死ぬってなんだろう?」という疑問が、おそらく確かな言葉や形にもならない状態で芽生えたのだろう。

一方、姉は当然アナよりも少し年上である分、死に関してもライトに理解をしていて、むしろ子供らしく無邪気(かつ残酷)に、いわば「遊ぶ」ように取り扱うことができる。
猫の首を戯れにちょっと絞めてみたり、焚き火を飛び越える危なかっしい遊びをしてみたり、死んだふりをしてアナを驚かす。
抽象的な概念を感覚として理解できるまでの柔らかい壁、すでにわたしたちが忘れてしまった境界が、ここにはこの上なく細やかに表現されている。

やがてアナはある出会いと別れを経て、銀色の月光に照らされた死の世界に招かれるように誘い出され、半歩だけ足を踏み入れる。
そこからアナは戻ってくるのだけれど、果たして彼女は前の通りの彼女なのか…

このような、死が常に日々と同居する感覚は、内戦後のうら寂しく荒れた村の風景や、父母のどこか疲れた表情にも反映されている。養蜂に勤しむ父は、限られた巣の中で労働に一生を終えるミツバチを見て「死は救いである」と考える。

しかし、この映画が厭世的で暗い作品なのか…とは、わたしには思えない。

「memento mori」には対になる言葉として「carpe diem(カルペ・ディエム)」がある。
「その日の花を摘め」の意で、死は常にあるのだから今を精一杯生きよ、と繋がる。絵画の中でも、度々「memento mori」と「carpe diem」のモチーフは共存して描かれる。

この映画においても先行きが不安な世の中で一辺倒に死を憂うのではなく、アナは常に「生」を体現してもいる。
「危険だ」と父が踏み潰した毒キノコを労わるように見つめる表情、ある男に渡した林檎と時計、そして『フランケンシュタイン』の劇中で少女(=アナの分身と考えて良いだろう)が怪物に渡す花。

そこには紛れもなく生への慈しみがあって、終盤に医者が口にする「大事なのはアナが生きているということだ」という言葉がそれを裏付けるようだ。
それが子供(=未来)であるアナに託されているということは意義深く、胸の真皮に近い部分をこつこつと叩くのだ。