亘

山猫の亘のレビュー・感想・評価

山猫(1963年製作の映画)
4.5
【諸行無常の世界で】
19世紀半ば両シチリア王国。この地の有力貴族ファブリツィオはパレルモ近郊の屋敷で優雅に暮らしていた。しかしイタリア本土で始まったイタリア統一運動はシチリアに波及し始め、彼の立場に陰りが見え始める。

没落しゆく貴族を描いた作品。ファブリツィオは古くから続く家系を継いで両シチリア王国のサリーナ侯爵の称号を持つ。何もなければ屋敷で優雅に暮らし、この地で力を持っているはずだった。しかし時代は、イタリア統一へと動き両シチリア王国は消滅が近い。そうなればファブリツィオの身分は保証されない。[新:風向きを見て有利な方に着くタンクレーディ]と[旧:現状の既得権益にしがみつき豪奢に楽しむ貴族]という新旧の対比もポイント。ただファブリツィオは、自らの時代の終わりを悟り静かに一線を退こうとする。そんな彼の引き際の美しさは今作のコアだろう。

冒頭ガリバルディ率いるイタリア統一運動の知らせが入る。だが貴族たちは革命を「特殊な世界」と呼んで気にしてない。ファブリツィオは、甥のタンクレーディが革命軍に参加したこともあり革命を脅威に感じているよう。神父に「万物流転の世界でどうするか」「不滅の教会とは違う」と話し将来の不安を話す。

そして彼は伝統にとらわれない言動をとる。例えば貴族は家系を考えて近縁者同士で結婚をする。しかしファブリツィオは、甥タンクレーディの結婚相手に従姉コンチェッタではなく市長の娘アンジェリカを取ることを了承、仲人も引き受ける。アンジェリカは貴族に合わないし、成り上がりの市長も気にくわない。ただ彼の決断は、時代変化への対応・力のある市長に近づくという考えもあっただろう。さらに彼は統一イタリア王国に投票する。

一方タンクレーディはガリバルディの革命軍(共和派)からイタリア王国派へ移動する。彼は情勢を見て着く側を決めたのだ。でも"家"を基準にした世界観のファブリツィオからすれば考えられない。この事実は彼にとっては大きな衝撃だったに違いない。

その後はファブリツィオの美しい引き際が見えてくる。統一イタリア王国で議員になる誘いがあっても断り、市長を推す。権力・既得権益にしがみつく多くの貴族なら議員になるだろう。だがファブリツィオは自らを環境に適応できないものとみなし断るのだ。その後のセリフ「山猫と獅子は退き、ジャッカルと羊の時代が来る。そして、山猫も獅子もジャッカルも羊も自らを地の塩と信じているのだ」という言葉は、彼の一種の諦めも感じられる。

山猫や獅子は縄張りのなかで威厳を保っているような伝統的貴族の象徴。一方ジャッカルは、狡猾で情勢に応じて巧みに生き抜くタンクレーディのような人、そして羊は庶民の象徴だろう。そしてその誰もが自分たちを"地の塩"つまり世界に必要なものだと考えているのだ。これは、誰かが絶対的に正しいわけではないし、絶対的に間違いでもないということだろう。そして自らの時代の終わりを悟り次の世代に後を譲ろうとしているのだ。

終盤の舞踏会のシーンは圧倒的な映像美で豪華。ただファブリツィオは、そこに貴族の堕落を見る。彼からすれば、もうすぐ自分たちの時代が終わるのに能天気に騒いでる貴族は虚しいものなのだ。彼は浮かれる貴族たちの豪華なパーティの中で1人平静で浮いている。ただアンジェリカからダンスに誘われると、往年のダンスの腕を見せ来客の注目を集める。それは時代の最後に見せた彼の最後の輝きなのかもしれない。ラストシーン寂れた街角で彼が金星に向かって「いつになれば永遠の世界で会えるのか」と語るシーンは、彼の無念や諦めがこもっていたように思う。

印象に残ったシーン:ファブリツィオが議員の誘いを断るシーン。舞踏会のシーン。ファブリツィオが金星に向かってつぶやくシーン。

印象に残ったセリフ:「山猫と獅子は退き、ジャッカルと羊の時代が来る。そして、山猫も獅子もジャッカルも羊も自らを地の塩と信じているのだ」

余談
・ヴィスコンティ監督自身貴族の末裔だったことから、今作のドレスは一部ヴィスコンティ家のドレスがつかわれています。
・ファブリツィオを演じたバート・ランカスターやタンクレーディを演じたアラン・ドロンなどイタリア人以外の役者のセリフは、全て吹き替えだそうです。
亘