青乃雲

彼女が消えた浜辺の青乃雲のレビュー・感想・評価

彼女が消えた浜辺(2009年製作の映画)
4.0
アスガー・ファルハディの一連の作品は、因習(いんしゅう)から逃れようとする女性たちをモチーフとして描いているように感じられ、この『彼女が消えた浜辺』に登場するエリは、そうした作品群のなかでのスタートラインに立つ存在のように思う。

また同時に、因習からの解放を求めた先にある、それでも人が原理的に抱えざるを得ない空虚さや、それを見つめようとするファルハディのモダニズムも感じる。



イランの中流階級と思われる3組の夫婦と(乗っている車はBMV,PEUGEOT,TOYOTA)、離婚したばかりの男と、そして保育士の女エリ。これら男女8人と、その子供たち3人が、首都テヘランからカスピ海沿岸へと、3日間のバカンスへと出かけるところから映画は始まる。

妻A:セピデー(快活な性格。隠し事が多い)
夫A:アミール(封建的な価値観。隠し事の多い妻に苛立つ)

妻B:ショーレ(神経質なところがあり自己主張が強い)
夫B:ペイマン(お調子者な側面と封建的な厳しさをもつ)

妻C:ナッジ(優しい気質であまり自己主張しない)
夫C:マヌチュール(温和な性格でいつでも常識的に振るまう)

女:エリ(セピデーの娘の保育士。母親がいる他は謎)
男:アーマド(ドイツ在住で一時帰国。ドイツ人女性と離婚)

避暑地に到着した早々から手違いがあったものの、海辺の荒れた別荘を借りることができた彼らは、初日の夜と翌日の昼までは楽しく過ごす。しかし、その2日目の昼に事件は起こる。ショーレとペイマン夫婦の幼い息子が、大人たちが目を離している間に海で溺れてしまう。セピデーの娘たちがそのことを告げ、慌てて救助に向かう大人たち。緊迫した時間が流れるなか、なんとか救援することができたものの、そこにいたはずのエリの姿が消えていた。

1泊だけのつもりで同行したエリは、帰りたがっていたものの、セピデーがそれを強引に引きとめたこともあり(セピデーは離婚したアーマドとエリを結びつけたかった)、彼女が子供を救援しようと海に入って溺れてしまったのか、何も言わずに帰っただけなのかをめぐり、残された7人の男女が、疑いと罪悪感のなかで憔悴(しょうすい)していくことになる。



こうした性格の異なる3組の夫婦によって、ファルハディが総体として描いているのは、現代イランに住む人々が抱える、ある意味では普遍的な空虚さのように感じられる。3泊のバカンスの間に引き起こされた一連の出来事によって、描かれる人物それぞれの細やかな感情の襞(ひだ)が波打ちながら、中心にはいずれも空虚さがある。

その空虚さの具象的な象徴として、エリは存在している。

子供が海で溺れ、彼女が失踪する直前に、エリが子供たちと凧揚(たこあ)げをするシーンが印象的に描かれる。凧(たこ)は、海辺の風に吹かれて自由に空を舞おうとするものの、思うように気流に乗れない。そして、ようやく空に舞ったように見えても、実は地上からタコ糸によって繋がれている。

この象徴的なシーンは、因習に繋がれた女性性のようでもあり、また、登場人物たちの中心にあるだろう、空虚さの具象的な表れのようでもある。

映画の後半では、エリに婚約者がいたこと(アリレザという名の男性)や、イスラム的な道徳観念のなかで揺れ動き、翻弄される彼らの姿を追っていく。しかし、彼らが本当に対峙しているものは、そうした因習でさえないのではないか。

正体の定まらない空虚さ。それを中心に、空転していくような登場人物たちの姿が、ファルハディの作品にはいつでも描かれているように感じる。セピデーが、なぜあれほどまでに様々な事情を隠し立てながら、エリを望まない婚約から解放しようとしたのかについても、ある空虚さからだったのではないか。

映画のラストで、海から溺死体として引き上げられたエリの亡骸(なきがら)に対面した婚約者が見たものは、もしかすると、現代のイランに生きる人々が(モダニズムを経由して、他国に生きる僕たちの風景にもなる)、心の中心に抱えている空虚さの行き着く先だったのではないか。

★イラン
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