「もう何も書けない」と落ち込む作家を救うのは自ら生み出したフィクションの登場人物。結局「ダメダメな俺には創作しかないんだ」とナルシシスティックに図々しく奮起するが、これはウディ・アレンのリアルな嘆きだったのではないか。
ベルイマンとフェリーニを親(パクリ元)として、一通り描ききってしまったあとにどうするか。本作も既にウディ・アレンがかつて通ってきた(撮ってきた)題材、主張の焼き直しでしかないわけで、その苦悩をあるがまま作品にぶつけたのではないかと邪推する。だからこそ、姑息なゴダール的なジャンプカットを用いたりして、映画に「外側」から刺激を与えていたように思える。
ここまでゲスな下ネタに頼り切るウディ・アレン映画も珍しい。これも、なんかもうどうでもいいわ、今さら同じようなことしか描けないんだから好き勝手にさせてくれとクソガキの開き直りのように見えてくる。もう空っぽだが、それでも撮るしかないのか。撮るしかないんだよな!拗らしたインテリ作家の停滞期。
精神病の作家と死体と娼婦とさらった子ども、出鱈目なスラップスティック的な組み合わせは嫌いじゃない。空想とリアルがごっちゃになる作家の話は、どこか初期のホン・サンス映画を想起したりも。
デミ・ムーアにエリザベス・シュー、ウディ・アレン映画を見続けると、その時代の旬な女優が最もベストなタイミングで現れるので、アメリカ映画の一つの流れとして、そのあたりに注目するとまた違う角度から楽しめる。
それにしても『地球は女で回ってる』洒落た邦題(ポスターイメージ)がついているが、どうしようもないクズ男の内向的な話だし、ニッポンでのウディ・アレンはどこまでも「おいしい生活」(糸井重里)のイメージで押し切っていて呆れながら感心する。