塚本

家族の庭の塚本のレビュー・感想・評価

家族の庭(2010年製作の映画)
3.5
勝ち組、負け組という言葉がある。
これらの言葉が内包する意味は、言葉を変えて戦後高度成長期からバブルを経て現在に至るまで、ある価値を測る基準として、表面的にも潜在的にも、当たり前に使われてきた言葉だ。ある価値とは言うまでもなく、経済的、あるいは地位的の差別化にある。
だが、俺はおもう。
21世紀に入ってからニューヨークの911、リーマンショック、東日本大震災を経て、その神話が崩れつつあることを。

…地質学者のトムと心理カウンセラーのジェリーは長年に渡って連れ添った仲の良い初老の夫婦だ。二人ともある程度の専門知識を要求される、充実した仕事を持ち、娯楽と言えば読書か食前にワインを適量嗜むことくらいだ。テレビも家にはない。食事も家で作ったものしか食べず、その主な食材は土日に赴く市民農園で丹精込めて育てた野菜が中心だ。裕福とまではいかないが、彼らは満ち足りており、心身共に健康を維持し、現状に不満など入る余地もなく、彼らの言動や所作は、至って物静かだ。
この「幸せ」な生活は彼らが人生の先々で選択した習慣の積み重ねの結果であるのだ。

一方、この夫婦の家を訪ねて来る人たちは、こんなライフスタイルの対極にある。
メアリーはジェリーの同僚だが、配偶者選びに2度も失敗し、アルコールに溺れる日々を送っている。
若作りをしているが、それが却って痛々しい。彼女は決して貧困層ではないが、連れ合いがいないことで満たされない思いを抱いている。

「幸せな人」と「幸せじゃない人」を決定的に区分けする象徴的なシーンがある。
…ジェリーの、黒人の同僚の出産祝いで、ガーデニングパーティを催した時だ。メアリーが、バッグからタバコを取り出すや否や夫妻も含め、黒人の同僚も赤ちゃんを抱きしめ、メアリーのいる位置から、なるべく遠くに避難するのだ。後に残されたのはトムの古い友人で、見た目で暴飲暴食の習慣が予想できる体型のケンだけだった。彼らは場違いの如く紫煙を吐き出し続ける。
この二極化は余りにカリカチュアライズされていてまるでコメディのようだったが、おそらくこれが現実なのだろう。
終盤、ある日の冬の午後、孤独に耐え切れなくなったメアリーは夫妻の家をアポなしで訪れる。
だが、この日は夫妻とその息子とその婚約者だけの、身内だけのディナーが執り行われる手筈だったので、ジェリーは、「来るときは連絡してちょうだい!」とメアリーをたしなめる。孤独を癒してもらおうと訪問したにも関わらず、逆にカウンターを食らって益々情緒不安定に陥ってしまうメアリー。
ディナーには参加させてもらえたが、身内の機知に富み、満たされた会話にもついて行けず、テーブルの一画で伏し目がちに料理を突つくメアリーのズームショットで、映画は幕を閉じる。
これが、ハリウッド映画なら、メアリーにも一筋の光明を仄めかせて、観客にも一抹のカタルシスを与えるところだろう。
しかし、監督のマイク・リーは冷徹に彼女を突き放す。
原因があって今の彼女があるのだ、これは因果応報なのだ、と作者は言い切る。そして、逆に捉えれば彼女のようになりたくなかったら、今からでも遅くはない、自分の足元をしっかり見据え思い切って今のライフスタイルを変えることだ、と作者はメッセージを送っているのだ。

…幸せなんて10人いれば10通りの幸せがあると思う。しかし、歳をとって、側に誰でもいい、愛する人が居ないということは、辛い事だと思う。
そして俺はロハスの信者でもなんでもないが、やはりこれからは倫理が主体である時代がやって来ると思っている。自己を律しうる力の継続による結果によって勝ち負けの時代が来ると思うのは、楽観に過ぎるだろうか?
塚本

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