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歩いても 歩いてものALABAMAのネタバレレビュー・内容・結末

歩いても 歩いても(2007年製作の映画)
4.7

このレビューはネタバレを含みます

たまたま早稲田松竹で『海街diary』とともに二本立てをやっているのを見かけ、鑑賞。嬉しいことにフィルム上映だった。
シネカノン配給。是枝裕和監督作品。長男の命日に家族が集まるという話。
元々次回作を『空気人形』にする予定であったが、母親の逝去に際して急遽製作を決意したと監督は語っていた。非常にパーソナルな主題を取り扱っているが、意外とそういう題材が普遍的なテーマとして全世界に共有されることがよくある。本作がヨーロッパで上映された時、作中に出て来る監督自身の母親をモデルにした樹木希林さんを観たスペイン人漁師(かどうか記憶が曖昧)に「何故、俺の母親を知っているんだ」と言われたらしい。私性の強い作品が結果的に普遍的なものとして越境性を持ち、世界に受容された一つの例。
ある年の夏。海で溺れた子供を助けて亡くなった長男の命日を期に、横山家が集合した。次男良多は子持ちの妻をもらって初めての帰省。失業中ということもあって気が重い。父は元町医者。母はどこにでもいる専業主婦。妹の家族も一緒になって、横山家は少しにぎやかな夏になる。
この作品は、個人的に是枝監督作品の中でもっとも好きな作品。家族史の上に積まれた現在がフレームを通して伝わって来る。あくまで自分の中での考え方の一つだが、優れた作品からはその時代、その環境、その歴史、その営み、その怒り、その悲しみ、その喜び、その貧しさ、その豊かさが語らずとも空気として観客に流れ伝わる。
以前、お話を伺った時に、是枝監督は脚本を書く際には経験・観察・想像を基に書くと言っていた。確かに三点の比重は人それぞれあるが(三谷幸喜監督は想像に重点を置くタイプであったり)、主にこの三点である。そしてこれら三点の大きな基盤となる主題は自身の目という一種のカメラで見てきた、或は見ている事象や様である。今回、『歩いても 歩いても』では自らの出自と経験を背景に、家族という最小単位の血縁共同体の「関係」を非常に繊細に描いている。個の家族の何とも言いがたい距離感のようなものが、世界共通のものとして受け止められたという結果は非常に興味深かった。ラスト、突如として語られる良多のナレーション。自らの家族のその後を語っているが、驚くほど単調で味気ない口調と文体である。主人公に寄り添うのではなく、あくまで俯瞰の位置からこの物語は語られているという立場の表明となっている。又、このナレーションが入ることにより、物語全体の時間軸が過去、即ち回想であったとも解釈できるようになる。
そしてもう一つ、非常に素晴らしい演出が、家族の距離感である。(比較をするつもりはないが)森田芳光監督の『家族ゲーム』ではとても顕著に距離感というものを扱っている一方、本作ではとても繊細に、絶妙に扱っている。良多がスイカを風呂に冷やしに行って手すりがついていることを初めて知ったり、子供たちが大人たちから離れて診療室前の椅子に座ったりと何気ない箇所に家族同士の身体的、心的な距離の遠近を意図的に表現している箇所が多く見受けられた。
まだまだ言いたいことは山ほどあるが、それは観てのお楽しみということで…。前日に是枝監督にお会いしていたので、とてもタイムリーな上映企画だった。『歩いても 歩いても』というタイトルをつけた理由がまた私性が強く、興味深いが、ここでは省略。良多の「いつも、ちょっと間に合わないんだ」というセリフが印象的で大好きな至極の一本。
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