オクトパスマン

市民ケーンのオクトパスマンのレビュー・感想・評価

市民ケーン(1941年製作の映画)
4.6
冒頭のニュース映画演出はもちろん、「新聞記者の語り部がケーンの知り合いを訪ねて行き彼の人物像を立体的にしていく」という話の流れにしても擬似ドキュメンタリー的です。
有名なラジオ版『宇宙戦争』事件や、彼が『闇の奥』を全編一人称の映像で撮影しようとしていたという逸話、そしてそもそもウェルズが元マジシャンの経歴を持つことなどを踏まえれば、彼が虚実の境界線を曖昧にするような表現を好んでいたことがわかります。
それを踏まえると、この映画の画期的な点として言及されることが多い、パンフォーカスを駆使した奥行きのある多重構造の三次元的画面設計も、そのようなウェルズの嗜好が反映されたもののようにも見えてきます。

ケーンによる未完成の大邸宅「ザナドゥ」を映したオープニングから、終始凄まじく人工的な映像が展開される本作。言ってしまえば、ハッタリとトリックに塗れた映像の数々によって生じた異様な迫力が、映画全編にわたって支配的です。
そのあまりにも「視覚的」な画作り(=見世物的な画作り)は同時代の古典主義的ハリウッド映画が、「非視覚的」な演出を心がけていたこと(=いかに観客に視覚的な印象を与えずに物語を語ることに特化していたかということ)を鑑みると、まさに異端的存在だったそうな。
ウェルズは「見世物としての映画」に忠実であり続けた興行師としての映画人だったのであり、その意味でアウトサイダーだったと言えるでしょう。
しかし、彼が異端であったのも今は昔。ヘイズコードが力を失い、映画はどんどん視覚的、見世物的なものになっていきました。
そのため現代に生きる我々にはこの映画のすごさがわかりづらいというところがあるとよく言われます。

それでもこの映画の映像的魅力は普遍的なものです。ウェルズお得意の、陰影を駆使した表現主義的な画作りはこの時点から十二分に発揮されています。それは、彼がのちにフィルムノワールの傑作を撮ることを予感させるようですらあります。

この映画の主題は純アメリカ的なものです。アメリカン・ドリームの裏腹的な「心に空虚を抱えた成功者イメージ」は、それこそ現代に至るまで繰り返し表現されてきた資本主義社会の一側面と言えるでしょう。
そしてその物語の語り口の軽快さからは、今で言えば『ウルフオブウォールストリート』的なポップさが感じられます。
この映画、場面転換の大胆さがいちいちカッコいいのです。
特に、ケーンが、敵対する新聞社の記者たちを6年越しに自分の会社に招き入れたことを示したシークエンスや、『サイコ』に先んじて、屋外から室内へカメラが徐々に
(切り返しを使わずに)入り込んで行くショットなどなど。

『レディプレーヤー1』しかり『ソーシャルネットワーク』しかり、21世紀にも受け継がれる汲めども尽きない映画的アイデアの源泉として、まさしく映画というメディアの一つの到達点として圧巻の傑作です。