Inagaquilala

PASSIONのInagaquilalaのレビュー・感想・評価

PASSION(2008年製作の映画)
4.4
ハイレベルな素晴らしい作品を観ると良いことも悪いこともある。良いことは、もちろんその作品に出合えたこと。悪いことは、自分のなかの評価のハードルが上がって、その後に観る作品がどれも物足りなく感じてしまうことだ。

この作品には自分としては過去最高の4.5点をつけたい。同じ濱口竜介監督の「ハッビーアワー」も傑作だったが(こちらは4.3点)、自分的には、2008年に東京芸術大学大学院映像研究科の修了作品としてつくられたこの作品のほうが好きだ。

とにかく、そのいちいちに工夫を凝らした絵づくりに唸る。基本的には主要登場人物5人の恋愛模様を描いた群像劇なのだが、彼ら彼女らの心理の襞に分け入るような画面構成が卓抜だ。前半は3人以上の集合場面が多いせいか、カットバックを多用した繋ぎの絵づくりだが、それぞれのカットのアングルや人物配置が心憎いほどに計算されていて、どれひとつとっても気の抜いたものやアリバイ的カットはない。

監督のインタビューなどによれば、撮影は現場の俳優たちの動きに合わせながら、多くはその場の対応で撮られていったと語っているが、それでもなおかつ監督の強力な考えや美意識は発揮されているように思える。もちろんその後の編集の段階でもそれらは激しく注入されているにちがいない。

当事者2人のシーンが多くなる後半では、うってかわって10分近くにも及ぶ長回しによって、心理の変化、関係性の変貌を確実にトレースしていく。とくにヒロインと彼女に長年懸想してきた男が夜明け前の暗闇の中から現れるシーンは秀逸だ。

このとき最初カメラは引きで工場の煙突を撮していて、まだ闇の中にいる男女の喋りだけが聞こえる。それが夜が明けるにつれて、画面右側の闇から話しながら男女が現れ、やがてカメラはそちらにパンしながら、画面もアップになる。決定的な会話がなされた直後に大きなトラックがふたりの背後を横切り、この長回しが修了する。まさに奇跡ともいうべきこのシーンにはとにかく驚きを禁じ得なかった。

東京芸術大学大学院映像研究科の修了作品には、きちんと予算も付いており、プロの俳優を使って作品づくりができるそうなのだが、俳優のチョイスもかなり的確だ。ここでも自分のお気に入りの渋川清彦が出演しているが、ヒロイン役の河井青葉、その不誠実な婚約者役の岡本竜汰、岡本が関係を結ぶ女性役の占部房子、そしてその「彼氏」でありながらヒロインに長年思いを寄せてきた岡部尚と、主要5人のキャラクターはかなり際立っており、この群像劇にくっきりとメリハリを与えている。

岡本、占部、渋川の3人で展開される「本音吐き出しゲーム」も、この作品の見どころのひとつで、これほど会話がスリリングなものなのかと再認識させてくれる。個人的には河井青葉の無垢の演技にも魅了されたが、「悪」の岡本竜汰と占部房子もいい味を出している。

順番は逆になるが、最初に集まる食事会のシーンから不穏な雰囲気が漂い、スリリングな展開が予想される。とくにドラマチックな展開があるわけではないが、いつのまにかこの人間関係の環の中に自分も投げ入れられ、作品の世界へと没入していく。それはつくりもののお話の中では味わえない極めてリアリスティックなカタルシスで、それが濱口竜介の作品の魅力なのかもしれない。

観る者を驚かす奇想やサプライズやギミックはないが、それらを凌駕する感情の振幅を体験することができる。この作品を観ると、甘っちょろい恋愛劇や運命の人間ドラマなどバカバカしくて観ていられなくなる。それが残念といえば残念だ。
Inagaquilala

Inagaquilala