かつてNHKで放映されたときには光と影の演出だったりシンメトリックな構図だったり二頭立て馬車の馬の躍動感だったり……絵の素晴らしさを論ってしきりと感心していたのを思い出すし、だからカール・ドライヤーは偉いのだなどとしたり顔して、まったくもって自分は鼻持ちならない若造だったと改めて思うわけです。
今見ると、短躯ながら代々の地主としてなんとかこれまで数々の難局を切り盛りしてきた老領主の面構えと立ち姿にこそ打たれるし、キリスト教ならではのスペクタクルと映画の親和性ですよね、異教徒(=私)がほとんど意識しない映画史のまた一つの太い脈流をまざまざとそこに見るわけです。キリストを、あるいはキリスト的なるものを現出せしめたいという、映画をめぐる欲望ですね。つまりキリスト教とは、言うまでもなく、視覚的なイメージのじつに豊穣な宗教であると再認識させられる。
では、奇跡をどう映画で描くのか。本作はもうその極北ですね。何を、ではなく、いかに、を徹底する。いかに撮るか、主題の特異性を措くとしても、これほどまでに方法論が先鋭化した映画はほかにないのではないかと言いたくなる。
神に祈れば聞き入れられる、という素朴な信仰は、ことばの上ではどこまでも神の存在を盲目的に信じるということを反復するのみだが、結局は共同体に対する全的な信頼を個々の人間から引き出すある種のギミックなんだろうとは思いますね。そこに異教徒の入る隙がある。
いやはや、私もまた奇跡を目撃してしまった。恍惚に浸りながらも、キリスト教に帰依する契機となるかについては、また全然別の話。そうね、結局のところ、そこにあるのは圧倒的な映画体験であるというに尽きる。