J

エレファント・マンのJのレビュー・感想・評価

エレファント・マン(1980年製作の映画)
4.0
難しい。

このような作品は感想を文字・言葉として形にするのが非常に難しい。

まだこの作品を鑑賞していない人へ向けるとするならば、感動した。是非鑑賞して欲しい。

簡単に言えばマイノリティや差別を扱っている作品。

差別・公平とは。善・悪とは。


でも実はもっとシンプルなテーマなのかも…とも思える。

描いているのは人間の本質?

人間の欲とか行動パターンとか…

まだ、そこまでは自分の中で解釈しきれていないけど…


という訳なので、一応マイノリティや差別といった面で感想を述べることにする。


…と言ったものの、とにかく感想が難しい。

先程、感動した。と言ったが、
この作品で感動をしたとしても、それは凄く複雑な感情ということになる。

メリックの外見や境遇、それを絡めたストーリーに感動をすることは、すなわち好奇の目で見つめる彼ら(サーカスの客、野次馬、貴族たち{本作では悪者という立ち位置})と本質的には同じなのではないかと。

たまたま感動の種類が違っただけで、彼を見て恐怖、嫌悪、不愉快を感じた者たちと何ら変わりは無いのでは?
 
なぜ感動する必要があるのか。同情なのか、哀れみなのか。

じゃあどうすればいい。
手を差しのべればいいのか、それとも見過ごせばいいのか。醜いと言えばいいのか。

差し伸べた手すらも、差別・偽善だと言うのならば私たちは一体どうすれば…

一方、メリック自身はどうなのかというと、その差し伸べられた手で心が満たされていると言う。

僕は幸せだ、と。

その差し伸べられた手が、偽善だとしても、悪を含んでいたとしても、彼はそれに気づくことはない。

なぜなら今まで手を差し伸べてもらったことがないから。

あなたが差し出したその手が彼にとっては全て。

彼はそれを受け入れる。彼はそれにしがみつく。

となると、善やら悪やら、なにが差別なのやらを考えること自体が馬鹿馬鹿しいものであり、それこそ差別と呼ぶのかもしれない。(鶏とタマゴ理論のように永遠のサイクルになるけど…)


この作品を振り返ると、バイツもトリーブスもケンドルも院長も、彼らの差し伸べた手には何らかの理由があった。詳しくは描かれていないが、そう感じた。

しかし、同じサーカスの劇団員たち(メリックと同じように何らかのハンディキャップを持っている)がメリックの脱走を手伝ったシーン。
そのときの彼らが差し伸べた手だけは何も無かった。純粋。無垢。理由が読み取れなかった。

本当になんでもないシーンではあるが、その描写が私の中で非常にショッキングというか…

彼らの同じ目線に立つことはできても、同じ景色は観ることは絶対にできないのかもしれないと感じた。

p.s.

その他大勢と唯一同じ形をした彼の綺麗な左手が、私の目にはとても悲しく映った。


ちなみに本作は実話に基づいたお話で、ジョセフメリックの生涯を調べれば、ラストシーンの後にどうなったのかは察することができる。
J