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クンドゥンのkuuのレビュー・感想・評価

クンドゥン(1997年製作の映画)
3.7
『クンドゥン』
原題Kundun
製作年1997年。上映時間135分。

西蔵(チベット)の最高指導者ダライ・ラマ一四世の半生を 描いた伝記米国映画。

彼の理想に燃える成長期に焦点をあてて、国外亡命に至るまでの苦悩の日々を、イメージ豊かで思索に満ちた映像と音楽で綴ってる。
スコセッシ監督、作家メリッサ・マシスン、そして彼女の当時の夫ハリソン・フォードは、この映画のために西蔵への入国を禁止された50人以上のリストに追加されたそうな。

1937年、西蔵のある寒村に長旅を続ける僧侶が訪れた。
彼らの目的は4年前に逝去した、ダライ・ラマ13世の生まれ変わりを探すこと。
そこで彼らはハモという名の幼子に出会う。
彼こそが、“慈悲の仏陀・観音菩薩”の生まれ変わり、ダライ・ラマ14世と僧侶たちは確信する。。。

自身カトリック教育を受け、聖職者 を目指した経験もあるマーティン・スコセッシが、映画史上初めてダライ・ラマにスポットを当てた作品っす。

小生は、決してこの作品をコキおろすために書くのではなく、実際のダライ・ラマ14世の行動を踏まえ、鑑賞の参考にしていただきたく、ダライ・ラマの功績じゃない陰の部分から書き始めます。
勿論、ダライ・ラマ14世の若き頃の信念は美しいし、尊敬も出来ます。
あくまでも若きダライ・ラマ14世に。
また、無知ゆえに誤りもあると思いますし、信奉されてる方々には不快に思うかもしれませんが、どうか無知ゆえにとお許しください。
かなり前に露国国営放送局の公式サイトで、
ダライラマは、『自分』に『執着』せず、バカにしよる人たちを『貴重な教師』として愛し、憐れみの心を育む発よう露国の仏教徒らに訴え、露国の信奉者らに対し、偽の指導者らを警戒するよう呼びかけてた。
インド北部ダラムシャーラーにある自身の公邸でロシアの仏教徒らと面会し、説法の際に、憐れみには
『人々、動物、他の生きた存在の間に激しい違いはない』 
と述べ、
なぜなら、
『全ての生きた存在は苦しみを望んではおらず、幸せであることを望んでいるからだ』と。
この言はホンマに聡明やし、人間愛にあふれるモンやと思う。
己を批判する人は、実は自分に学びと学習を与えてくれる。
真理とは云わないまでも、俗世間では実行出来れば素晴らしい考えやと思う。
霊的や精神世界の業界では定番の話ではあるんやけど。
せや、そしたら、何故、ダライラマ事務所が世界平和連合(統一教会)と組んだり、オウム真理教や米国民主主義基金からの資金を受けたり、部下のカルマパが中国のスパイ疑惑でインド警察に強制捜査されたりとクソ坊主のトピックが絶えへんのか?
言行一致しとらんとしか云えない。
ホンマに、彼がピースの平和主義者で仏教の教えを理解しとるならなんで政治活動に躍起になるんのか?
ダライ・ラマが西蔵ゲリラを結成して中共と武力闘争をしたりブータンに侵攻した事実もある。
多くのチベット人の血の色で彼の法衣は染まっている事実は変えれんと思う。
彼の主張が仏教とはチョイはずれてきてるし、New Ageなどの宗教的・疑似宗教的家の言をテンプレにしてると感じる。
漢民族と西蔵人の敵対や、日本人と中国人の感情を煽るような彼の態度と、菩薩と謳う口から出る言葉には大きな齟齬が有る。
西蔵の自称最高指導者として、西蔵人に対する宗教を謳う独裁と人権の軽視を反省することすら忘れてる。
若き志を持つダライ・ラマ自身をも自身が忘れてる。
西蔵の毛沢東こそが、ゲルク派の僧侶たちで、ダライ・ラマは断じて西蔵仏教の主流では無い。
結構辛辣に書いたけど、宗教を志して歩み始めたキッカケはどうあれ、歩みの人たちの多くは純粋になってると思います。 
怒られるかも知れへんけど、オウム真理教の松本智津夫だってはじめは純粋に志を持ち歩んだと思う。
勿論、ダライ・ラマだってそうだと思うけど、宗教団体の幹部や長となると人は変わる。
変わらざる得なかった出来事の数々を描かれた伝記映画としては素晴らしい作品やと思います。
そんな現代の彼を踏まえて、過去に遡る、
物語は1950年、毛沢東率いる中国共産党の西蔵(チベット)侵攻により、青年ダライ・ラマは国家の存続をかけた重大な決断を迫られることになる。
16歳の元首は北京へと渡り、毛沢東と会談をおこなうけど、
『宗教はアヘンだ』
と口にする毛沢東にダライ・ラマは、共産主義が仏教を破壊しようとしていることに心を痛める。
やがて、中国の西蔵侵攻は本格化の兆しを見せ、人民解放軍からはダライ・ラマ暗殺をにおわす脅迫めいた書簡が送りつけられる。
中国側が全面的な武力行使に出る危険もいよいよ迫ってきた頃、ダライ・ラマは西蔵の魂を守るために、己が亡命する以外に道はないと決断する。
みずからの無力を痛感し、存在不安にさいなまれる ダライ・ラマの心情を、スコセッシ監督はあくまで等身大の人間的な苦悩として描きだしているかな。
スコセッシ監督の作品には常に宗教的な命題が息づいていると思うけど、 彼の興味は一貫して
『信仰に忠実』
な生き方のできる人間そのものにある。
現在のダライ・ラマの行動はどう見てるか聞いてみたい。
また、仏教からひもとかれた非暴力の姿勢を貫いていたこめ若きダライ・ラマに強く引きつけられたというスコセッシは、 本作を亡き母に捧げている。
スコセッシの目には、非暴力を体現するダライ・ラマに、無条件の愛を体現する母なる存在が同一化したとき、宗教的主題が生まれ、この映画を完成へと向かわせる動因となったんやろと思う。
本作品が公開されたのは、中国が英国より香港の返還を受けた年。
中華思想による、領土的野心を持つ中国が次に目を向けるのは、まさに動乱の渦中にある西蔵だろうと世界の耳目は注がれていた。
いまだ不遇な状態にある西蔵の動向は、人間の尊厳とは何かを強く問いかけると同時に、中国、米国を含む大国の論理を省察する事象なんやろな。
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