JunichiSato

コーリャ愛のプラハのJunichiSatoのレビュー・感想・評価

コーリャ愛のプラハ(1996年製作の映画)
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ショーン・コネリー似の主人公の、貧乏なりに音楽とセックスに充実した日々が、コーリャの出現によって崩壊せしめられるのは、ソ連の進駐によって自由を押し潰されてきたチェコの歴史について触れているのだろう。なお正式にはソビエト崩壊以前の国名はチェコスロヴァキアだが便利のためにいずれも区別せずチェコと書く。

物語を通して次のような3フェーズを主人公は体験する。
1. コーリャの出現: 自由の喪失
2. コーリャとの和睦: 新しい自由の発見
3. コーリャとの別れ: 新しい自由の喪失

このうち 3. のコーリャとの別れは、映画内でソビエト崩壊と直接結びつけて描かれているほか、 1. のコーリャ出現も、ソビエト兵が軍用車で主人公の周囲を行ったり来たりする様子からして、プラハの春以降のソ連による軍事介入と占領を示唆している。

そう考えるとき、この映画の最大の魅力である主人公とコーリャが相思相愛の関係を築いていくシークエンスは、民主化運動が圧殺され、ソビエトの恐怖政治に席巻されていたと考えてしまいがちな、プラハの春からビロード革命までの20年ほどの親ソ時代を、郷愁を交えて振り返ったコメンタリーであると結論づけて間違いはないと思う。

主人公がコーリャを忌避する対象ではなく愛の対象として見るようになるきっかけとなる大きな事件はなにも起こらない。喉元を過ぎた熱さを忘れるように、気づくと主人公はコーリャを気にかけ、慈しむようになる。ソビエトの象徴であるコーリャを保護するようになることで、反露感情の強い保守的な母親との仲は破綻してしまうが、それでも主人公は自分でも理由がわからないままにコーリャと良好な関係を築き、そしてソビエト崩壊とともに別れを迎える。

ソビエト崩壊と中東欧諸国の民主化は、我々西側の目から見ると圧政からの開放や暗黒時代の終焉といったプロパガンダをどうしても含んでしまうが、そこに住んでいた人々からすると、その暗黒時代にも日常は存在していたし、むしろソ連崩壊によって永遠に失われてしまった何かもきっとあるはずだ。この作品はそのような、決して公には表明しがたいが確かに存在した、2つの革命の間の時代のチェコを肯定的に再評価することを試みた映画である、と僕は読みとった。