うべどうろ

秋津温泉のうべどうろのレビュー・感想・評価

秋津温泉(1962年製作の映画)
3.7
この作品にはアンビバレンスな感情を抱く。一つには、構図への絶対的な信。「秋津荘」という空間を見事なまでにいかした吉田喜重の美的センスには脱帽するほかないし、そこで貫かれている禁欲的なまでに閑雅な画面構成に引き込まれてしまう。映像を支配する「7:3」あるいは「8:2」の不文律は、その淵源を「秋津荘」あるいは「旅館」という建築的な空間構造に求めることができ、その規律がバストアップで見つめられる表情の背景にまで徹底していることが素晴らしい。明瞭に組み込まれた“廊下”や“居住まい”への配慮はもちろん、温泉に浸かる二人の顔の位置にまで、その美学は反映されている。こうした映像の支配こそ、映画の魅力に直結している。

と、同時に、音楽への絶対的な依存も仮借なく追求すべき点に違いない。きっとこれは賛否両論あると思うのだが、僕個人としては作中ほとんどのシーンが“うるさかった”。ずっと音楽が流れ、こちらの意思とは無関係に情緒を強要し感情を押し付けてくる。二人の関係性を包み込み、隠してしまうような音楽の使用は、いかがなものか。(あくまでも僕は)もっと二人の会話を直接聞きたいし、二人の間で交わされる親密さや緊張感、そしてそこを包括する「秋津荘」という空間の佇まいを感じたいのだ。

こうした、映像への賛美、音楽への批判というアンビバレンスな感情を抱いていたが、物語の本筋としては、僕はとても好きな作品だった。この『秋津温泉』には、二つの美しい“力”(あるいは“作用”)が働いているからだ。もちろんその第一は、“生”と“死”というエネルギーの交換原則である。物語冒頭、“生”を担う新子と“死”を背負う河本が出会う。ここで重要なのは、このシーンでは河本の血(=結核の症状として)が流れ、その血に新子が触れるということだ(あるいは、鏡越しに触るということも重要なのかもしれない)。この瞬間に二人の関係は、“生”と“死”という分かち難い関係へと深入りし、そこを結ぶ運命的な赤い糸の役割を“血”が果たしているのだ。そして、物語が進むに連れて、この“生”のエネルギーと“死”のエネルギーは徐々に移動し入れ替わっていく。そしてついに物語の結末では、新子が“死”のエネルギーを背負い、河本が“生”のエネルギーを担う。ここでもまた、新子の血液に河本は触れる。そう、物語の冒頭と終盤は美しいまでもシンメトリーな関係にある。
 
そして、この関係に説得力を持たせるのが、第二の“力”=閉鎖的な拘束力である。それはもちろん、「秋津荘」という舞台に地縛霊のごとく結びついていて、ここに時間的かつ空間的な束縛が生じている。新子は母親が「秋津荘」に嫁いだことで、この地から離れることができなくなって、空間的に束縛される。物語冒頭、河本に惹かれたのもまた、この閉鎖的な「秋津荘」からの脱出を試みるものでもあって、その証拠に「大学出たんでしょう」など、外の世界へと想いを馳せる質問を繰り返す。しかし、このとき、新子は悲劇的にももう一つの束縛=17歳という時間的な拘束力にも囚われてしまう。物語終盤、新子は17歳の女性との会話の中で「私も17歳の頃は出たかった」と語る。これはある意味で、新子が「もう子供ではない」とも意訳できるが、僕は反対に思う。新子は今でも尚、17歳のころと同じように、河本が「秋津荘」から連れ出してくれることを望み、それはたとえ「死の国」であっても構わないのだ。それが証拠に、最後、新子が自死を決意する直前に、河本は新子に「もうそんな歳じゃない」と耳打ちしてしまう。永遠の17歳、不動の秋津荘に縛り付けられた新子には、もう逃げ道は一つしかなかったのではないか。その意味で、小説にはなかったと聞くこのプロットは、吉田喜重の名案であると思われるし、この作品を完璧に閉鎖的な傑作へと押し上げているように僕は思った。
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