カラン

秋津温泉のカランのレビュー・感想・評価

秋津温泉(1962年製作の映画)
5.0



ヴィスコンティの『夏の嵐』のような、古典的な風物に満ちてはいるが、ストーリーは他愛のないメロドラマ、ということになるだろう。死に向かう存在が、これ見よがしに、桜の舞い散る花に包まれたり、麗しい岡田茉莉子が艶やかな着物を着て、よよと泣きくずれたり、草履を脱いで雪の中や川の中に入っていくのだが、真っ白い足袋でであり、タバコをふてくされたように吸っていても、酔っ払っていても、着物に固有の曲線を描きながらであり、そこではみ出す脚は内向きである。こうした美学の全ては《門切り型》でしかない。林光によるブラームスやシューベルトの室内楽を単純化したような濃厚な旋律は1回目は美しいのだが、幾度となく反復されると、単調でくどすぎて、門切り型な印象をさらに強める。

しかしだ、「クリシェに過ぎない」という批評は、ここ日本ではとくに、ネガティブな評価にはならないだろう。俳句や短歌はクリシェにどれだけ目配せできているかが問題なのではないのか。この『秋津温泉』は女優・岡田茉莉子の企画によるものであり、オープニングクレジットにも最初にそう記載されている。岡田は芸名を永井荷風からいただいたそうだ。懐古主義だと言ったら怒られるかもしれないが、江戸文化を愛した永井である、付き合いのあった岡田茉莉子も日本的クリシェに相当の教養があったのかもしれない。フランス好きの吉田喜重は、アヴンギャルドな映画ばかりなのかと思っていたのだが、今回は脚本でデカダンスを強調(岡田の演じる主人公の新子をゴーストにする)した以外は、自粛したのだろうか。吉田喜重はこの作品の企画を岡田茉莉子が持ってきた時、初めは断ったらしい。

だからこの映画は徹頭徹尾、岡田茉莉子のための映画なのかもしれない。岡田茉莉子は撮影時は30前であるが、映画冒頭の空に向かって想い人の名を呼んで両の頬を手で押さえる17才から、湯舟から伸びた首が艶かしい年を経て、ゴーストになる34才までを演じている。素晴らしいとしか言いようがない。日本家屋の特有の暗がりのなか、折々の着物を着て、或いは、着物をはだけて、湯けむりのなか、雪のなか、川のなか、桜のなか、山道で、時の移ろいを感じさせるクリシェと戯れる岡田茉莉子を捉えた映画の中心となるショットの数々は、至福である。




ところで、この映画には、はっきりとした主題がある。「待機」のフィギュールを形成することである。門切り型な姿勢ではあるが、恋愛とはあなたの不在の中で、あなたの到来を「待つ」ことである。『恋愛のディスクール』でロラン・バルトが言うように、愛するあなたが今ここにいないという「不在のディスクール」を物語ってきたのが歴史的に《女たち》であるとするならば、「待つ」ことは人を《女》に変容させるプロセスなのであり、恋愛についての映画を撮るのは、やはり、《女たち》なのだということになるだろう。

「待つ」ことは、人を女にする。太宰治に『待つ』というてのひら小説があるが、読み手によっては気持ち悪いと感じるのかもしれない。太宰治が「待つ」という恋愛のモードを通して、《女》になっているからだ。この『秋津温泉』の主題とは、「待つ」という恋愛の本質的なプロセスを通して、岡田茉莉子を変容させ、《女》の本質を描くことである。

そして、女が《女》であることに耐えられなくなる時、ゴーストに変容するのも、これも門切り型なのかもしれない。

ヴィスコンティの『ベニスに死す』(1971)は、ダーク・ボガード扮する壮年期を過ぎた男が、母に手を引かれた美少年を追うとき、ドーランを塗り、紅を引いているのである。この時、男は《女》になっているのだが、スペイン風邪に覆われたベニスの熱風に顔がとろけており、すでにゴーストになっている。男が少年を待ち焦がれるとき、男が化粧をして《女》になり、ゴーストになるのである。

『アナザーカントリー』(1983)でルパート・エヴェレットは間歇的に《女》になり、コリン・ファース扮する親友のために祖国を売って、ロシアの地でゴーストになる。この映画もホモズの話だが、《女》が点滅しながら切り替わると既にゴースト化している。この映画の中の女とは、ホモの恋人のハーコート、母、最初と最後に出てくるインタビューアー、そしてエヴェレット扮する(?)主人公である。


恋と女とゴーストという三つ組の古典的な物語を、吉田喜重=岡田茉莉子は完成させたのだと思う。この素晴らしい物語を読み違えてはいけない。長門裕之扮する河本という男は、岡田茉莉子をゴーストに変える媒体以上のものではない。この河本なる男には恋も、愛も、wikiのあらすじの書き手が言うような「肉体の情欲」すらない。彼には何もない。岡田茉莉子がゴーストになる前から、この映画にはゴーストがいたのである。長門裕之がそれだ。ゴーストが感染る。これもまた、恋の門切り型の一つなのかもしれない。
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