あなぐらむ

トータル・リコールのあなぐらむのレビュー・感想・評価

トータル・リコール(1990年製作の映画)
4.0
BSテレ等玄田哲章吹替版(オリジナル吹替ですね。ニュージャパンフィルムだったし)。
これも何度も見ているがぼーっと見てしまう。作品的にはレン・ワイズマンのリメイク版の方が原作に近いし、コリン・ファレルの駄目男ぶりがこちらも原作風味で良くて好きだ。

マリオ・カサール+ハリウッドの石井輝男ことポール・ヴァーホーヴェン版のキモはSF大作という枠を利用したゴア描写と、強い「見世物」意識にある。この両者が「ショーガール」へと行きつくのは当然の流れだったと言えよう。
全体のルックとして、1990年から見た未来というには結構なチープさがあり、このガジェット趣味、露悪的な「現代から悪くなっている未来」の描写はリドリー・スコットのような洒落たビジュアルではなく、ヴァーホーヴェン監督の故郷であるオランダ・アムステルダムの裏町の、ヨーロッパっぽさを色濃く映しているのが特徴。特に後半、火星に行ってからは殆どのシーンがスタジオセットになる(そりゃそうだよ)為、その「狭さ」が今見るととても窮屈で、いやよく出来た世界観だとは思うんだが、どうにも息苦しい。上が抜けてない感覚がある。
アクション映画の定石である追跡劇の形を取っているが、この「ヌケ感」の無さと、シュワルツェネッガーの屈強なガタイがどうも画面をコンパクトにしてしまっているように見えた。
また、この年の特殊効果賞を取ってもいるSFX(昔はこう言いました)の見本市状態になっていて、どうですか、どうですか? という画が続く事でお腹いっぱいになってしまうのも後年見ると厳しい。実際に公開当初に観てそうだったので(これは「ロボコップ」もそう)、今新しく本作を見る人は、そのレトロフューチャー感がしっくりくるかもしれない。

「自分の記憶は本物なのか、今生きている『現在』もまた夢ではないのか」という、ディックらしい問いかけは今こそ新しい主題になると思われ、この悪夢的な入れ子構造(ハッピーエンドになっても、それが夢かもしれないという逆タイムリープ的な)の体験は非常に興味深い。
特に、物語中は曖昧にされて終わってしまうが、ハウザー(本当の記憶の持ち主)が裏切り者だったかどうかは、観客の判断に委ねられているのは、このオランダ生まれの監督の意地の悪さが全開になっている点だろう。

物語の後半の火星パートには、強くアンダーグラウンド感が漂い、「ミュータント」の名目で畸形をわざわざ特殊メイクまで使って大挙して画面に登場させており、意図的にこういう者達に「被差別者」の印を持たせていくのだが、この辺りは少しリンチ的な目線も感じさせる。そう、本作は「眼」線の映画である。冒頭から何度も真空で目が膨らんだり、窪んでいたり、ロボット仮面の夫人の眼が見開かれたり、シャム双生児的なカリスマの眼だったりと、これは観客に対してねめつけるように、眼の描写が繰り返させて印象付ける。そう言った「印づけ」もまた悪夢的な仕上がりである。

映画としての一番残念な部分としては、火星の本当のパートナー(ブルネットの人)に魅力がなく(いや好みの問題だけど)、一方でシャロン・ストーンにしても、思ったように活躍してくれないで犬死にしてしまうため、華が足りない。小悪党のマイケル・アイアンサイドも彼女にべた惚れしている割にはすげない態度で、これは監督にこっち方面を描く興味が無い(その割に三連おっぱいばかり見せる)のも意地が悪い。
とは言え、カタストロフとなるメルトダウンシーン(あぶねぇ)は方々で起こる爆発も含め迫力があり、やはり特殊効果で楽しむのが一番という感じの一作ではある。1990年の作品が今こそ(テーマとして)新しい、という逆説としてそれこそ「記憶」に留めたい一本である。