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ダンサー・イン・ザ・ダークのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

4.3

このレビューはネタバレを含みます

 今作含む2000年代以降パルムドール受賞作をざっと見ていたが、どこかお涙頂戴すぎる節がある。もちろん今作も、トリアーにしては涙を誘う作品で、ハナからカンヌ向けに作られた映画というのが世の中にはあると思っていて、今作も12カ国もの大規模な出資を元に制作されている(wikiより)。こんないちゃもんを付けるのは、以前大学の講義でカンヌへと導いた凄腕プロデューサーが来て、その胡散臭さが忘れられないからか(ロクな資金源もない学生映画に「君もカンヌにいける」なんて夢だけ与えていい商売だなと)。「パラサイト 半地下の家族」は映画単体としてではなく、韓国という国家が映画振興の力を強めたというエポックメイキングとしてであり、カンヌほど芸術の名の下商業主義的な映画祭もない。そんな邪推あってか、トリアー作品の代表と語られるも、一番トリアーらしからぬ作品に思えるのだ。ちなみに、ハネケの「愛、アムール」もハネケらしくないちょっとした感動モノとしてカンヌで受賞していて、同じものを感じた。

 ただ、そんな批判をしつつも初めて見た時ボロ泣きしたわけで、まんまとだなぁと今思えば。ただ、こうして時が経って久しく見ると、今作に対する一般的な胸糞ボロ泣き映画という体裁の中に実にトリアーらしい部分を見て取れた(「愛、アムール」も感動をかいくぐって毒がある)。害悪な男ビルに見る「ハウス・ジャック・ビルト」まで続く、恐らくは監督の自己像(今作に浮上したビョークからの監督へのセクハラの訴えの内容は、まさに今作のビルそのものであった)。意図的なまでに悪い方へと向かうストーリーライン。アメリカという国家への糾弾(ビルの家にかかげられたアメリカ国旗は印象的に映し出される)、これはのちの「ドッグヴィル」で結実する。

 トリアー、テーマこそ一貫して人生の最悪を描くが、その手法は実に多彩。あらゆる角度で描かれる一貫したテーマ。あらゆる角度からも最悪なことには変わりなく、積み重なる作品は人生の最悪さを弁証いていくばかりだ。今作もミュージカルという手法が取られるが、それがまぁ最高に響く。いきなり歌い出すのではない、日常がフェードで音楽へと変わる瞬間のゾクゾク具合は見事。また、ビョークの歌声がそもそも素朴さと美しさをはらむ儚さを持ち合わせており、彼女なしにこれらの興奮を作り出すことはできなかっただろう。また友人役に「シェルブールの雨傘」というミュージカル出演歴を持つドヌーヴを配するあたりも良い。ちなみに、実際にビョーク自身の作曲方法の一つに、日常の雑音からヒントを得るということがあるそうで、作品と非常にマッチしていたのではないだろうか(エイフェックス・ツインことリチャード・ジェームズがビョークに対し、「テレビの砂嵐に耳を傾ける」ことを箴言していた話があった気がする)。個人的には列車の音からの歌い出しが好き。

 また、トリアーの現実の時間軸をバッサバッサと省略する編集に対し、ミュージカルシーンは時間的な省略は一切ない(むしろ少し引き伸ばされている)。この映画の中では実時間と同じなのはミュージカルシーンの方なのだ。ここに現実と虚構が全く別物であることが示される。虚構は短くも省略されない充実した時間があるのだ。(「シン・ウルトラマン」もびっくりなほど)無数のカメラを設置した撮影も単純に画の豊かさを示す。それは確かに我々が実際に過酷な現実に感じるほんの少しばかりの休息を感じる感覚と近い。逆に、現実は省略していかないと耐えられないものなのだ。ヒッチコックが省略の妙で語られるように、我々はそもそも実時間に耐えられない。そんなこんなで映画は省きが多く、トリアーは、それは我々が残酷さを回避するための処世術であるからだと演出を通して明かす。

 そんなミュージカルが、現実に引き出されるのが最後のシーンである。ここでは、この歌は虚構ではなく現実に歌われる。時間もだから省略されない。それはまるで死刑までの時間稼ぎのようで、そしてそれをバツンと停止する死刑の残酷さが強調される。虚実が結びつく興奮の腰を折り、首が折れるシーンまでカット割ってややアップめで撮る丁寧さによって、どこまで悪意に満ちてんだかと思いつつ深いため息をついた。ただ、息子の目の手術が成功し希望だけは挫かれなかったのは意外だった。いや、しかしどうだろうか。死刑を目撃せずとも、息子は歌声とその停止を処刑場の外で聞いているわけで、それは後の人生に深い傷を生みそうなものである。トリアーは息子視点にして処刑シーンを映さないという選択肢も取れたはずだが、そうしなかったのはあくまで今作はセルマ主体だから当たり前かもしれない。それでも、息子は処刑を見ないということである意味その点では盲目でしかいられなかったとも言える。今作、セルマに親しい面々はなんだかんだで処刑場にいなかった。それは、観客である”見た”我々と”見なかった”彼らとして対比され、セルマが息子に求めた今後の視力、見ることが果たして良いことなのかと思うのだった。

 優しさ。他のレビューを見て、セルマは他者の優しさにも盲目であると書かれていて成る程と思った。しかし、自転車をくれたビル夫妻は後に悍ましい存在になるわけであり、優しさとは見分けがつかないものである。逆に、見えないのだから積極的に助けを求める素ぶりをすべきという極論まで言う人までいて、それは違うと思った。日本人は、弱者は弱者らしい素ぶりをしなければいけないというよくない考えを持っていて、それはきっと日本の遠慮の精神が拗れた果てなのだと思う。生活保護受給者が時折ひどい言われ方をするのを見て、セルマに同情する側でなくむしろ加害者側に我々は近い存在であることを認めなければならない(あまりにもそこに自覚がなく、自己責任論を振りかざしたり、またはただ涙を流すだけで終わらせてはいけない)。

追伸
最近、セルマが工場でやらかすシーン同様、自分も機械作業でやらかしたので妙に共感した。機械というペースに人間性が果たしてどこまで折り合えるのか...。そして失敗は本当に引きずるね...。
TnT

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