青山祐介

ファウストの青山祐介のレビュー・感想・評価

ファウスト(1926年製作の映画)
3.0
『ゲーテの≪ファウスト≫を映画化することはできる。そして、たしかにこう言える。―これは冒瀆であり、文学作品≪ファウスト≫と映画≪ファウスト≫のあいだには、ひとつの世界ぐらいのへだたりがあるのではないか』
― ヴァルター・ベンヤミン「パサージュ論」初期覚書

ムルナウの「ファウスト」は、ドイツの民衆本とゲーテ≪ファウスト≫第Ⅰ部をモチーフにした国民的映画と言われ、レンブラントを思わせる光と影の明暗法は「ドイツ無声映画の絶頂」とたたえられる。ムルナウの「闇の表現」と「絵画的空間」は、たしかに評価できるものである。しかし、これをゲーテ≪ファウスト≫の映画化と思ってはならない。
ファウストらしさを感じるのは、ファウストの書斎の中の場面だけである。(特殊撮影も見事ではあるが)
老ファウスト:あまりにも類型的に描かれ、メフィストもこの老人の魂などは欲しがらないだろう。
若いファウスト:美男で間の抜けた王子様、学問しか知らない世間知らずのファウストのイメージには遠く、将来のファウスト博士の面影は微塵もない。
メフィストフェレス:肥り過ぎた道化役者、機知と冗談は得意だが、悪魔の特性は感じられない。
永遠にして女性的なるグレートヒェン:ブロマイドのスター。
ムーラン・ルージュの歌姫イヴェット・ギルベール:メフィストフェレスとの掛合いは、ミュージック・ホールでの幕間狂言で、それなりに興味深い場面ではあるが、フランスの観客へのプレゼントである。
神秘の合唱:物語の大詰めにファウストとグレートヒェンは炎につつまれて昇天する。大天使の投げかける光の箭によって、仕掛け花火かネオンサインのように「Liebe=Love」の文字が燃え上がる。それはまさしく、ハリウッドの恋愛映画そのものであり、アメリカの観客のウケをねらったものである。

すべて移ろい行くものは
永遠なるものの比喩にすぎず。
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永遠にして女性的なるもの、
われらを引きて昇らしむ
(Das Ewig-Weibliche zieht uns hinan)

『しかしながら≪ファウスト≫の拙劣な映画化と優れた映画化のあいだにもまた、世界まるごとぐらいのへだたりがある』― ヴァルター・ベンヤミン「パサージュ論」初期覚書
青山祐介

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