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パルプ・フィクションの海のレビュー・感想・評価

パルプ・フィクション(1994年製作の映画)
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わたしの映画好きを遡れば、幼い頃に繰り返し観ていたジブリや世界名作劇場からきているんだろうけれど、映画を「映画」として本当に好きだと自覚したのは中学で二年間不登校になったとき、毎日毎日観ていた、B級映画が始まりだった。特にホラーが多かったけど、アクションもホラーもサスペンスも面白そうと思ったものは片っ端から何でも借りて帰って、夜遅くまで何本も続けて観ては昼過ぎて目が覚めて夕方にパジャマみたいな格好で近所のレンタルショップに向かっていた。週に10本近くを2回も3回も、店が移転し完全に潰れるまで、もう借りるものがなくなるほど借りまくり、店員全員に顔を覚えられ、あの店で戦績的なものがあったらおそらくわたしこそがMVPだったと思う。今でこそアカデミー賞とかパルム・ドール賞とか毎年かかさずチェックして、ヒューマンドラマもラブストーリーも邦画も観てるけど、当時のわたしを支えて生かしてたのはそんな作品の影に隠れた、くだらんつまらん、でも最高の映画たちだった。当時のわたしには、それだけが「映画」だった。カメラの手ぶれがすごかったり俳優が全員脇役のような雰囲気だったりの誰が見ても分かる低予算感や、なんか仰々しいことやってるようなんだけどお金が足りなかったのか途中で飽きたのかそれとも読み取れないだけでメッセージ伝え終えたのかわけわからんまま迎えるエンディングとか、逆にそんな「わけわからんさま」に取り憑かれてつくられたであろうどっかで見たような展開に言い回しにフラグシップで高まるテンプレとか、そもそも撮る創るが「映画が好き!」って情熱だけで成り立ってそのまま世に出てきたような作品たちが本当に愛しくて胸熱で、そういうのに丸一日潰して分析したり讃えたりして、馬鹿みたいにのめり込んだ。ほんと夢中だった。そこには、最悪な学校も先生も生徒もなかったし、リアルさはあるようでないようで危険牌ほど安パイな、いるのはアホな見た目した怪物と、怖いほどツイてる殺し屋と、逆にツキがなさすぎるカップルと、無口な運び屋と空気読めるタクシー運転手、信用できない警官と胡散臭い霊媒師、そんなもんだった。映画の中でしか絶対許されない不道徳がある、そのおかげでわたしは違う自分になれた。映像の中の俳優が、それぞれのキャラクターを演じたり、自分で作り出す小説や絵の中に、ヒーローや魔法少女を投じたりするのと似て、学校から天国と地獄ほど離れた古いレンタルショップの影になった奥の方で、わたしは違う自分になれた。あの頃、引きこもりだった知り合いのお兄さんがくれた大量のB級映画のDVDの中にはタランティーノ作品はほぼ全部はいっていて、そんなに推すなら!と試しに入れてみたキルビルをワクワクしながら観、最低!と激怒して以来避けてきた道の上で、ずっと挙げてわたしを待ってたであろうタランティーノ監督の手にわたしは今ようやく自分のこの手を叩きつけることができ(ガタカより先に出会ってしまったキルビルよ、罪なユマ・サーマン)、「CUBE」シリーズを推してたレンタルショップの店長は今肉屋で働いてるそうだけどタランティーノ作品が好きだったかなと今は知りたくて、カーアクションの中でも飛び抜けて好きだった「タクシー」シリーズのあの曲が本作のオープニングで使われてたのを知り、タランティーノの映画を観ているとき、わたしはあの頃のことを思い出す。あのレンタルショップと、ちっぽけで消えかけてた、ただただ映画が大好きだった自分を思い出す。燃えるような夕焼け、虫がたかる自販機。今思えばみんなオタクっぽかった店員。小さいブラウン管のテレビ、暗記したジョークに言い回し。日が暮れてから始まってたわたしのくだらんつまらん生活は、ダサいTシャツみたいにダサければダサいほどかわいくてかっこいい最高の時代だったのかもしれない。ダサい子供でよかった、最高の大人になれた。かたくなにかたくて凶暴で、馬鹿ゆえちゃんと優しくて、死神みたいに残忍だけど、ときに、ちょっとだけ天使にみえる。そんなわがままな自分でいたい、映画を観てるときくらい。わるいことですか、語ることは、演じることは?絶対にそんなはずない。愛されている気持ちになる、映画に生かされてきたこれまでのわたしの人生。最高だ。わたし、やっぱ、ほんと心から、映画が好きだ。
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