タランチュラ小堺

ゾンビ/米国劇場公開版のタランチュラ小堺のレビュー・感想・評価

ゾンビ/米国劇場公開版(1978年製作の映画)
4.3
「ゾンビ」鑑賞。

 原題は『Dawn of the Dead』
ジョージ・A・ロメロ監督によるゾンビ映画の原点にして頂点として、今も尚語り継がれる名作中の名作です。

昨日にリメイク版を鑑賞して、あれはあれで良かったのですが、口直し的にオリジナル版の方も再び観たくなりまして。

 というよりも、劇版のゴブリンの楽曲を聴きたくなったというのが正しいでしょうか。一度聴いたら、耳から離れない

「ダダダダッダッダッダダダ ダダダ ダダダッダッダッダダダ ダダダ ダン ダーン ダン ダーン」

孤独な死地に赴き、背水の陣を余儀なくされた兵士の様な気にさせてくれ、結果はどうあれ虚しくも儚く闘いに参じなければならぬ時、この曲が脳裏に流れ込んでくるものです。

ニューウェイブを基調としたチープなシンセのピコピコ音が癖になり、それに伴ったプログレッシブな不規則かつ幾何学的な変拍子。この映画の良さはゴブリン3割、ロメロ7割といったところでしょうか。

劇版が作品の象徴となり、凌駕してしまう程にあったケースは、この『ゾンビ』と『菊次郎の夏』における久石譲ってなものです。楽曲の存在感が濃すぎて、若干浮いてしまうくらいのね。

という訳で、改めてゾンビのメッセージや風刺、エンディングで描いたものについて語っていきたいと思います。


以下、弱ネタバレ含


【消費社会と人の欲望】


 2021年現在の視点から見ると「ホラー映画」としてはそんなに怖くないのですが、それでも今なお「ゾンビ」が名作と呼ばれ続けるのは、ホラー映画の裏にある、人間社会への風刺が今でも鮮烈なままだからだと思います。

例えば生前の行動習慣のなごりでショッピングセンターに集まるゾンビ。これは社会に何の疑問も持たず、ただメディアに煽られて過剰な消費行動をとり続ける人々への揶揄。

「ゾンビ」公開から20年後の90年代にも“デヴィッド・フィンチャー”が『ファイト・クラブ』にて人々の過剰な消費についてより直接的な描写で批判しています。

そういった意味でもゾンビの持つテーマ性は今においても色あせてはいないのです。

他にもゲームのようにゾンビを狩り、ショッピングセンターで物資を略奪するDQNたち。

前述のとおり、「ゾンビ」の行動原理として生前の行動を繰り返すというのがあるのですが、加えて「なぜ死者を食らうのか」ということに関してですが、ゲーム「バイオハザード」の文献では、ゾンビ化した人間には原始的な本能、つまり食べることのみが残るとされています。

本能で人を食い殺すゾンビと、快楽的にそんなゾンビを殺戮していく人間たち。

果たしてどちらが暴力的で野蛮なのでしょうか。

また、DQNたちだけでなく、主人公たちも同様です。

当初、子供のゾンビをやむなく射殺したピーターの表情には、自分の行動への迷いが見て取れます。しかし、終盤ゾンビを「匹」と表現していることから、ゾンビを自分たちと同じ人間ではなく、動物と同じような認識に変わっていることが伺えます。

生きる上では何の役にも立たない、盗品の高級品に身を包むコメディタッチに描かれたシーン一つにも、人間の欲深さ、業の深さに、今や狂気を覚えてなりません。

非常事態において、人間性というのはかくも脆いものなのだということを本作は示唆しているようにも思えます。


【されどなお、黎明の如く照らされるカタルシス】


 生前の行動習慣のなごりでショッピングセンターに集まるゾンビ。そしてそこを襲撃するDQNたちによる略奪。加えてゲームのようにゾンビを狩る野蛮さ。そして生き残るのは黒人と女性というラスト。そして前述の苦みを残すエンディング。

資本主義による過剰な物質社会・消費社会への皮肉、白人優位の人種差別に対する皮肉。まさに当時の負の価値観の全てをひっくり返すような作品でもあると思います。

エンディングに関しても同様です。

当時は76年に公開されたシルヴェスター・スタローンの『ロッキー』や『スターウォーズ』のヒットに代表されるように、ベトナム戦争の終焉と言う社会的な要因もあり、それまでのアメリカン・ニュー・シネマの暗くアンチ・ハッピーエンドとも言える作風の映画の人気は下火になっていました。

ですが、この「ゾンビ」は映画界のそんな風潮さえまた皮肉るようなエンディングに仕上がっています。これもロメロがハリウッド方式の大型資本による映画制作に疑問持ち、彼等と袂を分かつ過去を持っている事が根底にあるからだと考えられます。


 本作『ゾンビ』のエンディングはピーターがフランを屋上のヘリに送り出した後、一人ゾンビであふれかえたショッピングセンターに残り、もはやこれまでと自殺を図りますが、ゾンビが部屋に入った瞬間に寸前で思いとどまります。

そしてピーターはゾンビを押しのけながらフランの待つヘリに飛び乗ります。

しかし安堵も束の間、

「燃料は?」

「あまりないわ」

「…まあいいさ」

二人はともにわずかな燃料のヘリで夜明けの空へ飛び去ってゆきます。

死者であるゾンビの「食べる」本能に対して、生者である主人公たちの「生きる」という本能。

空に仄かに照らされた明るさは映画全体を通して唯一の希望を映し出しているように思えていてなりません。

ショッピング・センターという「消費社会」を後にする二人ですが、しかし、だからと言って何もかも丸く収まるわけではない、そんな未来を暗示させます。

ロメロがゾンビで描いたのは人間の愚かさであり、現代社会への皮肉でした。

ラスト、そこから夜明けの空へ飛び去ってゆくフランとピーターはそんな世界から解脱したかのようにも思えます。

しかし、それでも厳しい前途を予感させるところにロメロのテーマへの真摯さが伺えます。

この2人が生き残ったことの意味は、単なる人種問題の超越ではなく、どんなに苦境であれ、どんな絶望が待ち受けていたとしても、人が人たり得る理由を持ち続ける器であるからだと今ならそう感じます。

きっと世界が変わる事はなく、2人の運命も明るくはないでしょうが、人として生き続けることを覚悟した2人には、黎明模様の明け空に煌めくカタルシスを、よもや投影させてしまうかのようです。


【総評】


 テーマ性もさることながら、演出、テンポ、脚本、劇版、ディテール、全てが高水準なのですよね。それこそが今も尚頂点に君臨し続ける由縁でしょう。

明日には『死霊のえじき』を見返すこととなるでしょうが楽しみです。初めて観た時と変わってどのような情感を僕に抱かせるのだろうか。

それでは、最後にもう一度だけ、ゴブリンのメインテーマを以ってして、本作ののレビューの締めとさせていただきます。


「ダダダダッダッダッダダダ ダダダ ダダダッダッダッダダダ ダダダ ダン ダーン ダン ダーン」

以上。