ある日、ジョージ・A・ロメロが偶然ショッピングモールの建設現場へ訪れた際、天啓の如く閃いたプロットに、当時サスペリアで一発当ててイケイケのダリオ・アルジェントが資金提供を持ちかけて生み出されたのが、このドーン・オブ・ザ・デッド。ナイト・オブ・ザ・リビングデッドの、実に10年越しの続編である。日本公開名は、ヨーロッパ公開版と同じく「ゾンビ」。日本人には聞きなれない用語を題名に選択した日本ヘラルドの英断により、日本にゾンビという概念が広く認知されたと言っても過言ではないだろう。
前作から3週間後の世界を描いたこの映画を、私はある暑い夏、日曜日の昼下がりに見た。当時、まだ小学生だった。忘れもしない、ひいおじいちゃん家の母屋である。目の前で繰り広げられる凄惨なバイオレンス。死者が蘇って人を食べる、というインモラル。まさに、この世の終わり。そんなものを、全てが油断している怠惰な時間に放映してしまったテレビ愛知の罪は重い。
ナイトオブ〜を世に出した後、ロメロはしばらく生ける屍を撮らなかった。ホラー監督というイメージが付くことを嫌ったそうだが、続編の構想は常に温め続けてきたのではないかと睨んでいる。それくらい、この映画は練りに練られているのだが、その完成度ゆえ、観た者にディストピアに対する一種の「憧れ」を抱かせる結果になろうとは、ロメロ自身も思っていなかったのではないか。少なくとも、小学生の私は、この映画に恐怖し、同時に魅入られてしまったのである。
内容については、私ごときが今さら何を語らんやであるが、この「ゾンビ」の中で最も斬新だと思うのは、前半に映画としてのクライマックスを持ってきていることだ。マスメディア、コミュニティ、警察の崩壊、までを一気に描く前半のスピーディさ。しかも、大量の銃火器によるゾンビの大群とのバトルを、スラム街のアパートのシーンで描ききっている。(この前半だけを見たい日もあるくらいだ。)
そして後半は、ショッピングモールに立て籠もっての籠城戦。前半にゾンビの特性や秩序の崩壊を見せておいて、では何をすれば生き残れるのか?を実験的にじっくりと明示している後半こそが、ロメロが描きたかった部分で、前半の前フリが実によく効いているのだ。
モールを制圧し、全てを手にした主人公たちに対して、ひょっとしたらこんな世の中の方が楽しいのでは?という危ない幻想を描かせておきながら、突然バイクの轟音と共に、カタストロフィへ向かって収斂していく。一本の作品で、これだけ巨大な世界感を創造し、壊していった作品を、私は他に知らない。
さて、近年発刊されたゾンビ論という書籍で、伊東美和氏が重要な指摘をしている。「ゾンビ」公開時は、興行的な成功は納めたものの、世の中的にはゲテモノ扱いで、作品としての評価は低かったというのだ。しかし若い世代、取り分けティーンエイジャーには確実に刺さっていて、彼らが後にリスペクトを口にするようになったのだ、と。モラトリアムの籠の中にいる世代のフワッとした価値観に、この究極の地獄絵図が強烈にインプットされた訳である。
当時小学生だった私も同様だったようで、人生で1番の衝撃を受けた作品であり、40を過ぎた今でも、あの夏の日の強烈な体験を求めて、夜な夜なゾンビ映画の世界を彷徨うこととなる。そう、私こそが、ゾンビなのだ。(ドヤ顔で)