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真夜中のカーボーイのKKMXのネタバレレビュー・内容・結末

真夜中のカーボーイ(1969年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

 アメリカン・ニューシネマ(ANC)の傑作とされる本作。もっとやりきれない話かと思いきや、素晴らしい友情物語でした。もちろん、ANCらしい挫折や不条理が描かれていますが、『イージーライダー』のような時代性や、『バニシング・ポイント』のような負け犬ナルシズムみたいな雰囲気は感じられず、時を超える普遍性を持つ名画でした。そして、ゲイの映画でもありました。


 1960年代アメリカ。南部のド田舎で生まれ育ったジョーはアメリカンドリームを求めてカウボーイスタイルでニューヨークに上京します。どうやらジョーはジゴロで生計を立てたい様子。しかし、時代錯誤の田舎者であるジョーは誰からも相手にされず、カモったと思った相手から逆に金を搾取される始末。
 そのような中で、足の悪いホームレス・リコと出会います。リコはポン引きのマネージャーを騙り、ジョーはまたもやダマされます。その後ジョーは行き詰り、トンズラしたリコを見つけて詰めますが、リコもカネがない。その結果、最底辺の貧困弱者同士はなぜかタッグを組むことになり、ジョーはリコのねぐらである廃墟ビルに転がり込んで共同生活を始める……という話。


 カウボーイのジョーを起点とするならば、トラウマを抱えてニューヨークに逃げてきた男が、儚い夢は破れて困窮するものの、本来の自分と出会い成長する話で、リコを起点とするならば、絶望的に孤独で未来のない男が、友情を得て安息も得る話に思えました。社会的成功や一般的な幸福という視点で見るとあまりにも救いはないように見えますが、魂に焦点を当てるならば、ポジティブな意味を感じる作品だったと思います。


 ジョーの過去は断片的に語られます。おそらく崩壊家庭に生まれ、祖母に溺愛されながらも祖母は自身の恋愛をジョーより優先させる人でした。つまり、ジョーは愛を渇望している人です。そして、故郷では彼女がレイプされて自分もケツを掘られるという被害にも遭っています。ジョーは、傷ついて、愛されず、評価されない、ひとりぼっちで孤独な男です。そして、そんな惨めで痛々しい自分を抱えて生きているのです。
 ジョーにとってカウボーイは男らしさの象徴です。強くて愛される男の中の男のイメージ。さらに言えば、祖母が自分よりも大事にした相手はカウボーイ。ジョーはニューヨークでもカウボーイスタイルを捨てませんが、ジョーはカウボーイとして生きないと、惨めすぎて生きていけないのだと思います。ジゴロという生き方も安直な男性的強さの象徴です。
 ジョーに知性や要領の良さ、反社会的な凶暴さが備わっていれば、都会でサバイバルできたかもしれませんが、どれも備わっていなかった。だからこそ、ジョーは都会の最底辺を這いずり回るように生きざるを得なかったのです。

 しかし、ジョーはやはり自分と同じ最底辺の男、リコと出会います。ジョーは都会で生きる術は何も持ち合わせていませんでしたが、奥底では優しさは持ち合わせていました。この優しさ故に、ジョーはリコと奇妙な友情を育み、後半から終盤にかけて少しずつ成長していくのです。

 後半、ジョーはゲイであることをおそらく自認します。偶然、アンディ・ウォーホルのパーティーに参加したジョーは、ひとりの女性とベッドを共にします。しかし、上手くいかず、その時にジョーは女性にゲイであることを示唆されるのです。この時、ジョーは動揺しつつも、完全拒否はしませんでした。抱えるまではいかずとも、発狂はしなかった。
 これは、リコとの友情が効いているように思いました。独りぼっちの強がっているだけのカウボーイであれば、おそらく半狂乱になっていたでしょう。しかし、彼はショックを受けて、動揺できた。

 人の成長は、強い情動体験が欠かせません。しかし、その時に誰かが居ないと一瞬の狂乱で終わってしまう。ジョーの中にリコが存在し、ひとりじゃないと感じられる体験があったからこそ、このショックに耐えられたのだと思います。
 この後ジョーは僅かな変化を遂げていきます。病に冒されたリコとともに、彼が望むフロリダに向かい、フロリダではジゴロではなく地道に働くと語り、バスの中で小便を漏らしたリコをジョークで慰め、着替え購入のときに、ジョーはついにカウボーイの服を捨てるのです。
 ジョーは社会的にはかなり難しいと思います。フロリダ行きの金は、ゲイ売春で呼び込んだ客を殴り、奪ったものです。もしかすると客は死んでいるかもしれない。劇中では何事もなかったジョーですが、いずれ責任を取る日が来るでしょう。しかし、ジョーはその宿命と向かい合える可能性があるように思えます。それは、リコとの日々があり、カウボーイに頼らずに生きることができるようになったからだと考えます。


 リコはおそらく父子家庭に生まれ育ち、早くに父を亡くして孤独に生きざるを得なかった人です。ジョーどころではない最底辺の人で、かっぱらいやスリのテクから、そうやって糊口を凌いできたのだと伝わります。足が悪く、さらに肺病も持っている。
 そんなリコにとって、まともに話をしてくれる相手はジョーが初めてだったのではないでしょうか。リコにとっては初めての友だち。だからこそ、初めはジョーを騙しましたが、再会後はタッグを組み、ジョーをジゴロとして上手く売り出そうと本気で頑張っていました。
 リコの夢は、いつか温暖な地・フロリダに行って楽しく生活することです。本編の中盤にリコの妄想シーンが出てきます。妄想の中で、リコは浜辺を走り、ビーチやプールで老人たちと楽しく遊び暮らすのです。その時、ジョーも一瞬でした。フロリダ後も、リコはジョーと一緒に居たかったのです。

 リコの孤独は、ジョーのそれよりも厳しいものだと思います。曲がりなりにも田舎で生活できており、愛が乏しいながらも部分的には溺愛してくれた祖母や、一時的ながらも彼女がいましたが、リコは本当に独りぼっちです。父を亡くしておそらく10年くらいは、マジでたったひとりの人生だったと思われます。しかも、足に障がいを持ち、肺病のホームレスです。そんな男に、人生初の友だちができたのです。リコの立場で本作を観ると、胸が締め付けられます。ジョーと一緒に過ごした時間は、これまでと変わらず貧困で寒さに震える日々でしたが、これまでと違い、幸福だったと思います。病で伏せっても心配してくれて、咳き込んでも抱えてくれる優しきカウボーイ・ジョーがいるのですから。

 ラストは、リコがフロリダ行きのバスの中で息絶えます。外から見れば悲劇に見えますが、リコは幸福な最期を遂げたと思うのです。小便を漏らしても、ジョークで励ましてくれて、さらにイカしたアロハを買ってくれる親友が側にいたのですから。そして、蛇口が凍りつく寒々としたニューヨークの廃屋ではなく、夢にまでフロリダに向かうバスの中で往生できたのですから。

 リコはあまりにも不幸です。不条理な運命だったと思います。しかし、それでも最期に優しさを持つ友を得ることができました。そして、ジョーはリコという友を得ることで自分自身を見つめ、カウボーイの仮面を脱ぎ払うことができました。
 

 本作は、2人の友情以上に、あまりにも過酷な現実と、儚い夢の挫折が描かれています。もちろん、その面が一番強調されているが故に、不条理と挫折、そして破滅を描いたANCとしてカウントされているのだと思います。しかし、それと同時にまごうことなき友情の尊さをうたい上げているのだと思います。
 確かにジョーは成長しました。リコはそれまでの孤独さからは解き放たれ、友に見守られて旅立てました。とはいえ、ジョーのその後は何の確約もなく、強盗の前科故に(もしかしたら強盗殺人になっている可能性もある)未来は暗い。リコに至っては死んでいる。これをハッピーエンドというには厳しすぎます。しかし、自分は本作を魂のハッピーエンドだと認識しています。

 ひとりじゃないこと、どこか心が通う存在がいること。それがいかに尊いことであるか。自分は本作を観て、このように感じた次第です。


 最後に一言。本作の『カーボーイ』という表現は誤植ではなく、この表記が正しいそうです。どうやら、当時宣伝を担当していたマイク水野(シベ超)が、「カウ(牛)よりも、カー(車)の方がニューヨークっぽいね!」と言ってこの邦題になったそうです。さすがマイク水野、この当時からセンスがシベ超だぜ。悪影響甚だしい😎


【追記:サボテンとバントライン】
 俺っちが思春期にめちゃくちゃ聴いていた筋肉少女帯の名曲。この曲に本作が登場します。
 この曲の主人公は、孤独な少年テロリスト。友だちはおらず、孤独に世界を憎み、サボテンを神と崇め、ネコのバントラインに爆弾を仕掛けさせるテロを起こそうとします。映画館に爆弾を仕掛けた少年でしたが、その映画館で上映されていたのがANC『真夜中のカーボーイ』。バントラインが爆弾仕掛け、犯行は大成功と思われたが、映画に見惚れていた少年は、ムービーシアターもろとも吹っ飛んだのでした。

 本作を鑑賞し、なぜ少年は本作に見惚れていたのか。それは、絶望的な世界の中で、少年が手に入れ得ぬものだった友情が描かれていたからかもしれません。もし、いかにもな友情物語だったら、きっとそれは少年の憎むべき世界に組み込まれ、テロの対象になっていたでしょう。しかし、絶望的な世界での友情だったので、少年はおそらく、目を逸らせなかったのでは、なんて連想しております。

https://youtu.be/uvUOCndEby8
サボテンとバントライン / 筋肉少女帯
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