人間は名前を付けるから愛着が湧く…動物や植物やモノにだって人間は何でも名前を付けたがる。
名前とは単なる他との差別化や個の認識のためだけに付けるのではなく、愛情を注ぎ込み愛着を抱かせ良くも悪くも人間の知恵でもある。
この映画は無駄に贅沢な俳優陣を使って米国でも酷評された、〝リドリー・スコット〟の息子〝ルーク・スコット〟が監督した『ブレードランナー』を今風にしたような印象。
映画の善し悪しではなく、何故ここまで似た題材を制作したのか…それが不思議でならない。
この手の題材は今も昔も『ブレードランナー』以外にも無数にあるので、決して制作した事に意味がない訳ではない。
『ターミネーター』のような人工知能を搭載した完全自立型兵器(人間型とは限らない)も既に開発されいている時代で、それを軍事利用するべきでないなど一部の国際社会が警鐘を鳴らす声があがるが禁止などできるはずもないだろう。
この映画の内容どうこうより、作り手側の考えを知りたくなる。
ある意味、息子〝ルーク・スコット〟は父親をリスペクトしたからこそ同じ題材で勝負したのか、或は引かれたレールをただただ走っただけなのか。
映画を観ているうちに〝ルーク・スコット〟が、映画内の〝モーガン〟と重なってしまう。
〝モーガン〟が思春期を迎え反抗期の少女のように、唐突に感情を激しく荒ぶらせる行動。
人間でないのに思春期と言うのもおかしいが…。
〝閉じ込められた者の最も残酷な仕打ちは、窓の外を見せること〟
きっと〝ルーク・スコット〟も幼少の時は楽しい日々を送っていたが、大人になり窓の外を見てしまったのかもしれない。
あえて映画の中身に触れれば個性的な俳優陣を生かし切れていないように思うし、とにかく視覚的にも作りが貧弱に思える。
もっと深く〝モーガン〟のココロを描写すれば、また新たな新境地を見いだせたのかもしれない。
あらゆる科学技術を駆使し人工的に作られた子供も生身の人間が産んだ子供も、結局親の思う通りに育たないのは結局同じなのだろう。
父が息子に託す気持ちがあるならば『ブレードランナー2049』を、息子〝ルーク・スコット〟に思う存分作らせてあげてもよかったとも感じる。
実際『ブレードランナー2049』公開前に空白の30年間をつなぐ『2036:ネクサス・ドーン』と『2048: ノーウェア・トゥ・ラン』の短編を、〝ルーク・スコット〟に作らせているが本編を息子に作らせたらそれこそ親バカで終わってしまう。
それでも誰もが、最初は未経験。
人間的に成長し様々な経験を積み重ねていけば、この作品が〝ルーク・スコット〟にとって将来振り返ったときに意味ある作品であったと思ってほしい。
例え駄作でも記憶から消すのではなく、将来駄作が駄作でなくなるかもしれないのだから..★,