ちろる

仮面/ペルソナのちろるのレビュー・感想・評価

仮面/ペルソナ(1967年製作の映画)
4.4
自分の事を喋り通す事で自分を癒すことがある。
自分語りをすることによって本当の自分を見つける事がある。
ペルソナ=すなわちそれは私たちの被っている仮面の事。
だれもが内的側面を見失ないがちになるけれど、全く蓋をしてしまった人間の再構築は、一度全てを解放して破壊しなければならないのだ。大体の人間はそれをなるべく避けてなんとなく取り繕って人生を終えるのに、この作品でベルイマンは本当にそれでいいのかと問いかけてくる。
経験の浅い若い看護師と言葉を失った女優の1vs 1の間に挟まれながらエリザベートの表情と、始終喋り通すアルマの言葉に集中していると、全く関係のない私自身が2人の中に取り込まれているような不思議な気分になる。
海辺の保養所でまるで姉妹のように穏やかな日々を過ごす前半と、エリザベートとアルマの2人がお互いの存在意義に気が付いて苦しみ始める後半の居心地の悪さとのアンバランスさの表現がこの作品における、ベルイマンの観客との対話方法なのかもしれない。
今日の多くの映画監督がベルイマンのなんらかの作品に影響を受けていると思うのだけど、これが、「ファイトクラブ」の元ネタなことは有名だが私はこの作品を観て「複製された男」を思い出した。
光の操り方、暗闇と光の対比の表現が美しいドゥニ ヴィルヌーブ監督はきっとベイルマンにもインスピレーションを与えられたに違いないと勝手に思ってしまった。

オープニングとエンディングに映される蜘蛛、鳥の内臓、打ち付けられた手、羊の解体と一見繋がりもないような不快な映像のサブリミナル的連打は斬新でもあるが不可解でもある。
正直わたしにはあれらがなにを示唆するのか分からないけれど、これらが私たち与える印象こそが主人公たちの不安定な精神世界を表すものだとしたら、きっとあの時点で知らぬ間に彼女たちの中に取り込まれていったのかもしれない。
人生を問題なく幸せに生きていたいから人は仮面を被る。
仮面を被り続けると本当の自分を見失なうジレンマは少なからず私にもあるからこの作品について考えれば考えるほど心がざわついてくるのだ。
このことはどんなに時代が変わろうと人間の宿命だからこの作品はきっと色褪せないのだろう。
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