「仮面/ペルソナ」に投稿された感想・評価

masayaan
4.2
これが67年とは........キューブリックの『2001』も68年とかだし、基本、この時代ですでにアートとしての映画は完成しきっていたのではないかと思ってしまうほどの完成度だ。観念的にもバッキバキで、阿呆のように言えばポストモダン、柄谷的に言えば生きること全体に伴う「意味のなさ」を超絶的に達観した女優と、かつて浜辺で男たちと乱行したことや、そこで孕んだ子をおろしたことや、それを内緒にしてる彼氏と結婚することに「それでも何か意味がある筈」とエモってしまう看護師とのチルアウト・デイズ。「本当の自分」や他者との健康的なコミュニケーションを求めるエモさが、ポストモダンの冷徹さに対してキレるという構図なので、後半の空転ぶりが凄まじいが、「完全メタ」なる座標は存在せず、すべてに対して観察者の立場でいたつもりの女優も少しずつオブジェクト・レベルに落ちてくる。傑作だが、基本、自分はハリウッド映画の単純さがやっぱり好きかなー。
emo
5.0
もう…ここまで来るとゴダールよろしく(いつもゴダール引用するのやめないか)"分かる人には分かる"的な、天上の境地を感じてきた。純粋に人間業でないと思う。映画って、凄い…
ふたりが対話するのは、人々の日常と隔離された異空間、リアリティがありながらしかし白昼夢のような浮遊感。画面の白黒のコントラストだけでなく、あらゆる対比が面白いのです。白、黒、慟哭と静、幻聴と声、現実と虚無、無限に広がる海と大地と、縮約し洗練された内面世界。技術的にもたしかにアッと言わされる部分多いのですが、目立つ派手なそれより彼女らの、澄んだ眼差しの奥の、魂の叫びが聴こえてくるのが凄い、ただほんとうになにが起こっているか分からないのだけど、凄かったなあ…。

いつも思うのだけどこの境地の作品に触れてしまうと、それを分解し解読したようなレビューを書くのは野暮にも程があるってもんだなと…。あくまで、慎み深く…全身全霊で、ただわたしたちは感じます、読書感想文はお楽しみ。
美術館にいる様だった。
沢山の写真があるけど、自分に引っかかるのは数枚だけ。
順路と人の流れに従って退屈な写真まで時間をかけてみなければいけない。

映像にするには情報が少なすぎる。
モノクロならもう少し動きが欲しい。
ギャップが無いすぎる。
素晴らしいカットもあっただけに残念だった。
序盤の遊び心に期待しすぎたかもしれない。

感情的で醜い人間を見せつけられて腹立たしさもあった。
客観的に作品に落とし込めるのは素直に凄いと思う。
空気感が最高でした、内容も理解出来るまで観ていきたい
Ryo
4.5
テーマ
人格の融合
どれが本当の仮面(=人格)なのか、二人はお互いの人格を侵食しあうことで新たな仮面を見つける。
そしてベルイマンの映画に対する思いと情熱。映画とは芸術とは何か。芸術は人を救えるのか


人間は誰もが表と裏の顔を使い分け仮面を被ってる。そうして人間関係を円滑にコントロールするのだ。自分自身もそうだがそのバランスが崩れると、内面の自我(裏)と「仮面」(表)のどちらが本当の自分なのか判断がつかなくなり、二重人格ではないかと疑うようになる。

人と接する時と1人でいるときのギャップが激しすぎるとどっちが本当の自分かわからなくなる。病気になる人もいる。私個人は1人でいるときの自分が本当だと思ってるが人と接してるときその仮面を被った自分に本当の自分はこっちなんだと侵食されそうになる。この映画はそうゆう事だろう。

エリザベートは“仮面”であり、アルマがその“内面”として描かれてる。自身の罪と欲望を語る看護婦のアルマとは、女優としてのペルソナを被るエリザベートの抑圧された内面であり、内面と外面がぶつかり、理解し合い、やがてひとつに統合されるまでを描いた映画である。


失語症の女優と、幸せな家庭を夢見る看護婦二人はある別荘で二人だけで療養生活を始める。看護婦は自ら仮面を外していく。そして主人公二人の人格は侵食しあっていき、人格がぼやけていく。そして最後にアルマとエリザベートの顔が合体しエリザベートはアルマの血を飲む。アルマも今まで憧れていた女優のエリザベートの内面を知り、女優も一人の人間だしダメな部分もあるということがわかる。アルマ自身も、今まで目指していた理想像とは決別し、自分の生き方を見つける。


ーオープニングー
・まず最初は二つの強烈な光と熱がだんだん明るくなっていく。映写機に使う光だ。9,8,7,6(ギリシャ語でセックス)でペニスが映ります、次に古いアニメで胸に水をかける、次に実際は唇だが横に移し女性の陰部に見せる。これはセックスを意味してます。
・そしてその後タランチュラと羊の首と内臓、手を釘で打ったシーン、老人の死に顔。これは死を意味しており羊は生贄の象徴、蜘蛛はベルイマンの映画における神の象徴、手を釘で打つのはイエスキリスト。
・少年が読んでる本は「現代の英雄」この中にこの映画のアイデアとなったセリフがある。「俺には二つの人格があるんだ。一つは現実に生きてる人格。もう一つはそれを批評してる人格。」
これは二人の人格の融合であり、一人の二つの人格の話でもありますよと暗示してる。
・少年が触ろうとしてる顔はわざとアルマなのかエリザベートなのかわからないようにしてます。これは映画全体のテーマ人格の融合が関係してます。

ーアルマとエリザベートの象徴するものとはー
アルマ=観客
エリザベート=芸術家+ベルイマン
芸術家というのは私生活を無茶苦茶にしいろんな人に迷惑をかける。しかしそれで出来上がった作品は人を救うんだ。エリザベートは他人に迷惑をかけ私生活も崩れかけてる。でもこの女優を見たアルマは普通に行きてこうと人生を変えられるのだ。芸術家たちの人生を犠牲(羊の首が切られるシーン)にして人々をめちゃくちゃな人生から救うのだと暗示している

ー少年の写真ー
これはユダヤ人街ゲットーを写した写真でユダヤ人がドイツ兵へ反抗した。しかしその後ユダヤ人降参したがその降参する時に少年を一番前に出した有名な写真である。おもて面はエリザベートの子供を思い出させるとして描かれてるが、焼身自殺をするベトナムの僧侶もそうだがベルイマンの思い、芸術は人を救えるのかというのを表している。

ー女優の夫が別荘に会いに来るシーンー
考察1、エリザベートは母性がないと言われ子供を作り母親の仮面を被り、職業でもいろんな仮面を被り、夫が病院に来た時はアルマの仮面を被りよき性格の持ち主アルマとして喋った。母性がないと言われたことについてもそれをアルマが知るはずがない。人格が融合し自らに言い聞かせ罪悪感を感じてるのだ。
考察2、ここは看護婦の意識が睡眠中の女優の夢の中に入って二人の人格が融合した状態で体験するシーン

ータイトルー
ペルソナ=人格、仮面
昔ギリシャ(世界中でも)では演劇の際必ず仮面をかぶっていた。よって演劇、女優について語った映画である。
そしてユングは、人は皆仮面を被りシチュエーションに応じて演技してる、時によって仮面を付け替えていると言ってる。

ーこの映画にかけたベルイマンのメッセージー
失語症の女優はベルイマン自身です。実際に働きすぎで入院し、戦争や社会への無力感、僕のやってる芸術は現実に役立ってるのだろうかと悩んでたそうです。そのため坊さんのガソリンをかぶって焼身自殺したニュースゲットーにいる少年の写真が出てくる。少年の写真にはもっと深い意味があり、エリザベート役の女優さんのおじいさんはユダヤ人ではなかったが助けるために反対運動をしていた。そのため収容所に送られ殺された。人々を守ろうとしたのに殺された実の爺さんがいる。なのにこんな女優なんかやってていいのかというベルイマンのメッセージ。
最初ベルイマンはタイトルを「映画」にしていた。劇中途中でフィルムが止まりひび割れ焼けるシーンがある。あなたが見てるものは映画ですよというメッセージ。すなわち冒頭のシーンも、映画はセックスで暴力で死であると暗示している。さらにラスト、治療が終わったエリザベートは帰って行きそしてメイクをしたエリザベートが映ります。これは復帰を意味しそのあとすぐにカメラを乗せたクレーンが降りて来ます、そこに乗ってるのはベルイマン自身です。「僕は治療が終わりました。これからも自分を犠牲にして人々を救うために映画を撮り続けますよ」と映画に対する結論が出た映画なのです。
ねぎお
5.0

このレビューはネタバレを含みます

まずは何も情報を入れずに鑑賞。

《ざっくりとあらすじ》
冒頭の映像にビックリ!!実験映像かっ!?・・後にやはり意味のあるものだと。

しばらくすると始まる、意味の繋がりそうなストーリー部分。
看護士アルマが、三ヶ月入院している女優エリサーベットの担当をすることに。言葉を発することが出来なくなったエリサーベットと療養施設に二人きりですごすことに。そこではひたすらにアルマが自分の話をする。
どうやら二人とも堕胎の過去があり、結婚に問題を抱えていることが見えてくる。そして次第にぶつかり合う。クライマックスはエリサーベットの堕胎に至る過程を、本来それを知らないはずのアルマが本人に向けて言葉をぶつけるシーン。これは1回目、エリサーベットの表情のみ。そしてカメラ位置を変えてアルマの話す顔を撮るバージョンが2回目。この2回目は当初エリサーベットごしの絵から、ワンショットやや斜めからの絵、真正面からの絵とカメラ位置が迫る。このカメラ目線の演技はベルイマン監督が初の表現と聞いている。凄い迫力。さらに映像は、二人の顔が左右合体。
ラスト療養施設を出て行くのだが、荷物の準備は二人だったが、実際扉をあけて出て、バスに乗り込んだのはアルマだけ。

・・・1966年の公開からこの映画の持つ意味についてはあれこれ論争があるようです。そして「ファイトクラブ」など、この映画の影響を受けていると認知されるものも多数。

さて、このアルマとエリサーベットは、簡単に言って二重人格だと思われます。あるいは外面と内面の葛藤がビジュアルで表現されたと。
根拠は
①顔の合成の意味するところ
②アルマが過去を知っていた
③冒頭に堕胎した息子と思われる子供が母の顔を撫でるシーンがあるが、ここに出てくる本が「VAR TIDS HJALTE」とあり、これロシアのレールモントフの「現代の英雄」でした。まさに欲求や内外面のぶつかり合いの話です。

ただどちらが主人格なのかなどは、まだ私には判然としません。しかし「ファイトクラブ」に繋がるのならそうなのでしょう。

世界的な戦後の閉塞感の中、どう生きるか、人間とは何かが切実なテーマとなる社会に、フィルムノワールの時代がやってきた。フランスではヌーヴェルヴァーグ。その時代にスウェーデンに登場したベルイマン監督。
評価云々よりもそのパワーに敬服します。恐れ入りました。
すごい好き。
「運動」
タニー
2.0
これからどうなるんだろう??
と思いながら最後まで観たけど、よくわかんない映画だった。
もし「どんな映画?」って聞かれても、「よくわかんない」としか答えられない。
でも最後まで観てしまったってのは、何か惹かれるものがあったのかな?
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