本作のプロットやテーマについて語るのは到底難しく、無意味でさえ思える。部分的に理解できたとしても、全体の意味を捉えることはとうてい無理だろう。そんな必要はまるでなく、1つひとつの情景を味わっていけばよいと思う。もちろん、それらは独立しているのではなく、配置と反復によってつながっている。しかし、その帰するところの効果は、観客1人ひとりに委ねられている。
観客はやがて、あるいはすぐに本作における光の存在感に気づくだろう。本作においてノルシュテインは、光を、つまりは空気を画面に表現することに成功している。フェルメールやベラスケスのような偉大な画家に匹敵する業と言えないだろうか。しかも、この巨匠はその偉業を複数の異なる表現で成し遂げており、そのうえでそれらの断片的光景を巧みに配置、反復することで一個の作品となしているのだ。
古アパートの廊下の奥から溢れ出る光の、霧のような物質性。扉の奥に広がるセピア色の光景は、銅版画を真似たと思われる。人も物もデッサンのように線画で描かれ、その輪郭線がところどころかすれていることで光の強さが表現される。ここで光は、それ以外の全ての部分、つまり全体の茶がかった白さである。しかもよく見ると背景は2レイヤーになっており、それによって奥行きがなくても単なる平面になってしまうことなく、この光に厚みがもたらされる。このセクションは「永遠」と名付けられているが、まさにその名にふさわしい無時間的なユートピアである。それでいてこのシーンには郷愁に浸ることを押しつけるようなところはない。バッハのプレリュードも、既存曲とは思えないほど情景にマッチしている。
続く、ダンスと出征のシークエンス。1930年代のアンニュイな流行歌にのせて踊る男女……レコードの針がずれてノイズを上げるたびに画面が痙攣する、この不吉さの演出は冴え渡っている。そして男が一人また一人と消えるのだが、女のほうはダンスの姿勢のまま硬直しているのが、またやるせない気持ちにさせられる。男たちを乗せた汽車が音を上げると、その強い閃光が立ち尽くす女たちの影を際立たせる。このドラスティックな光の演出が、ソ連人口の一割を奪った第二次世界戦争が民衆に与えた衝撃を物語る。
あるいは終盤、詩人から紙を奪って逃げ出した子狼が車通りを駆ける場面はどうだ。イメージの反復がここで効いてくる。子狼のいる場面で自動車は何度か登場するが、両者の関係はあまり良好ではないがすでに示されている。そうした反復の集積の上に、子狼に無数の自動車が襲いかかるこの場面があるわけだが、これは実写を加工したのだろうか? その写実性、騒音の不快感、ヘッドライトの眩さ、その全てにそぐわない子狼のとぼけた面が何とも異化的だし、そのあとの林の薄暗さが隠れ家のように思えてくる。
このように、ノルシュテインはいくつもの光を使い分けることで、それぞれのシークエンスにそれぞれの実在感を与えている。ここでは触れなかったが、水の存在感もそれに負けないほど強い。ただ、究極的には、水のさまざまな現れ方も、光のあり方による。結局のところ、現象への鋭敏な感受性は、光への感受性に総合されるのではないか。光が現象を、ひいては空間をどのように存在させるのか、についての。
それにしても本作含め、ほとんどの作品を30代で創作している早熟ぶり。本作など、すでに悟りの境地に達しているような世界観である。制作環境と完璧主義のためにきわめて寡作であるのは、人類にとって深刻な損失だ。