きょんちゃみ

恋はデジャ・ブのきょんちゃみのレビュー・感想・評価

恋はデジャ・ブ(1993年製作の映画)
3.9
僕は、「知覚の現在」という何もかもが新しくなり続けていく巨大な場がまずあって、人は、その中で行動ができる可能性としてその現在に対して「時間」というものを描いていくんだと理解しています。それで、人の行動の自由の余地が増大して、人の行動可能性が大きくなればなるほど、人が描ける時間というのも豊かになるというわけです。

時間って結局、「すべてが新しくなり続けること」なのかもしれないよね。だから、新しくなれば時間が経っていると言えるし、なにも新しくなっていなければ時間が経っていないのと同じことだと言える。主人公は最後に新しくなった、だからこそ、時間は動き出したんだね。


『差異と反復』という哲学書がある。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの論文である。それに書いてあったことをこの映画を見たら思い出してしまった。これから少しだけ書いてみる。この映画の内容とも関係すると思われる。

哲学とは考えることであり、考えることは楽しいのだとか、そういうことが、しばしば言われる。しかし、本当にそうか。

何かを知ることは少しは楽しいかもしれない。しかし、考えることはどう考えてもやっぱり楽しくないのではないか。

私には科学を学んでいる友人が大勢いるが、彼らはいつも考えているので、よっぽど考えることが好きなんだろうと尊敬している。

考えることが大嫌いで、たまらなく大嫌いなのに、気づいたら考えてしまっているそういう自分に気付いて、自己嫌悪に陥る、そういう人もいるのではないか。

思考の手順をあらかじめ構築したり自覚したりしておけば、不測の事態に陥ったときもすぐに問題解決ができるし、自分はどういう風に今までやってきたのかということをすぐに参照して日常に復帰できる。その意味で、哲学者というのは、日常を構造化しがちなのである。日常を構造化することは、非日常に出会って考えてしまう場面で、考え込みたくないので、日常的な行為とはなにをやっていることなのかをあらかじめ先に考えておく、ということでもある。

つまり、哲学者は、危機など到来していないのに、危機を想定して、危機に先回りして、日常のありがたみを考えておこうとしている特殊な人種なのであると思う。

普通の人は、危機に陥ってから考える。それに対して、哲学者は、危機に陥る前に考えておく。危機の場面で焦らないためだと思う。

考えることが嫌いであればあるほど、考えることについて考えておかざるをえない。どうやったら考えないことができるのか、と本気で悩むだろう。つまり、どうやったら日常の安心感を確保できるかは、哲学者の最大の関心事なのだ。

考えることは、本当にそんなに楽しいのだろうか。私にはつらい作業であると思われる。何かが分かった時に爽快感はあるが、そのアハ体験とやらを味わうまでに、ずーっとモヤモヤ感を味わうことになるわけで、それってむしろ損のほうが大きいし、最悪ではないかと思ってしまう。

人は、考えないことの方へと、常に差し向けられている。人は、すきあらば、考えないことを欲している。人は、めったに考えない。人は、考えないことの方が好きだ。

人間は、省略が好きだ。人間は、単純化することが好きだ。人間は、あまり考えたくない。そのことをしっかり頭に入れておくべきだと思う。

実は、トマス・リードというエジンバラの天才的な哲学者が「ラブ・オブ・シンプリシティ」という概念を哲学に導入したことがある。これはなにを言っているかというと、人間には、「単純化への愛」があると言っているのだ。それがラブ・オブ・シンプリシティである。私も全く同意見である。人間は単純化することが大好きである。

さて、この映画のように、グラウンド・ホッグ・デイという、同じ日の反復によって、何が起きるか。どんどん人間はものを考えなくなっていく。なぜなら、反復によって習慣化されるからだ。

習慣化とは差異を無視することだから、どんどん人間は習慣によってものを考えなくなるのである。この映画の主人公がどんどんものを考えなくなっていくのがそれを示している。

職人は工芸品を作る。それを反復すればするほど、職人は微妙な陶器の差異に気づけるようになる。だから、反復によって差異に気付くようになるという人もいるが、同時に、反復には差異を見えなくする力もある。

では、人間は、いつ考えるのだろう。考えさせられてしまう可能性が人間には残念ながら2つだけある。

ひとつめは、不法侵入されてビックリしたとき。ふたつめは、ある分野の勉強をしてしまって、他人の目線でも対象を観察できるようになってしまったとき。

これからこの人間が考えてしまう2つの可能性についてそれぞれ分析する。つまらないかもしれないが、暇な人は読んでみてほしい。

【⑴不法侵入されたとき】
まずひとつめのケースは、不法侵入されたとき。イレギュラリティーにぶつかったとき、人間は考えさせれてしまう。無理矢理、不法侵入されたとき、人間は考えさせられてしまう。我々は、それぞれ構造化された環世界の中で生きている。

環世界は習慣によって構造化されている。例えば、我々は目の前の机の存在を信じている。それは、身体運動の習慣によって形成された信念である。机に向かって歩けば、ぶつかるということを我々は確信して生きている。しかしそのような信念があるのは、その人が歩けるからである。

では、イレギュラリティーとはなにか。その代表は自然現象である。環世界の外側からイレギュラリティーはやってくる。たとえば大震災だ。2011年3月11日、我々は考えさせれた。考えさせられてしまった。最悪な災厄だ。イレギュラリティーが、我々の生活(=予測可能性の集積)に不法侵入してきたのである。

イレギュラリティーとは出来事であり、出来事によって、我々は考えさせれてしまう。原発事故。考えるとは、出来事に対する対応をさせられることだ。

またアート、つまり表現も出来事である。得体の知れないものに出会って傷つけられることである。他人の世界の見方が、自分の頭の中に、不法侵入してくることだ。

アメリカの9.11同時多発テロが起きたときに、ツインタワーに飛行機が突っ込んだことについて、最高の芸術表現だと言って大炎上した芸術家のカールハインツ・シュトックハウゼンという人がいたが、炎上して当然である。なぜなら、みんな不法侵入は嫌いだからだからである。

「同時多発テロは最高の芸術表現だ」とか言ったやつは、我々人間がどれほど不法侵入されると傷つく動物かということをもう一度考え直して、慎重にものを言うべきだと思う。繰り返すが、シュトックハウゼンは炎上して当然だと思う。冒頭から繰り返し述べているように、人は考えるのが嫌いだからである。

この映画では、あるとき、突然おじいちゃんが死ぬ場面に遭遇してしまって、主人公が死ぬことについて、考えさせられてしまう場面がある。あれは、死が生活の外側からやってきたのだ。死は自然現象であり、環世界の外側には死がある。死ぬことは、自然そのものである。いや、逆に次のように言ったほうがいいだろうか。自然そのものになろうとすると死ぬ、と。

我々は、環世界の外側に死を追い出すことを、毎日頑張っている。なぜなら、どうせ必ず死んでしまうことについて本気で考えていたら、何もうまくいかないからだ。そんなことは、哲学者にでもやらせておけばいい。


【⑵他人の見方を学んでしまったとき】
この映画の主人公は、学ぶことによって、突然、世界が実は、差異の塊、情報の塊であったことに気付く。

音楽を学べば、音を聴いたときに、得られる情報が増える。だから、彼はピアノを勉強する。主人公は氷の彫刻のアートを勉強するし、彼はついには、本を読むようになってしまったのだ。勉強とは、他人が世界をどう見てるのかを学んでしまうことだ。それによって、世界が新たな見え方をし始める。そしてそのことによって、世界が膨大な量の差異で実は出来ていることに彼は気づいたのである。

世界とは膨大な情報が複雑な仕方で凝縮され、折り畳まれ、畳み込まれながら生成してゆく全体だったのである。それに主人公は気づいた。詰まらない日常の反復だと思われたものの中に、凄まじい楽しみ方の襞(ヒダ)が圧縮されて存在していたことに彼はついに気づいてしまったのである。

つまり、この映画が言いたいのは、我々は、あまりに反復してしまうと、むしろ差異を求めるようになるということ、このことである。

それが、勉強なのだ。つまり、我々は基本的には差異が大嫌いなのだが、あまりに反復が過分になると、むしろ差異を欲するようになる。それによって、勉強したくなってしまう。だから、主人公は、勉強を始める。他なるものに生成変化することによって、世界を違う仕方で味わえるようになる。そのための、古い自分にたいする自己破壊の運動として、この映画の中で勉強は捉えなおされるのだ。

ただし、勉強とは自己破壊のことなので、勉強をし過ぎると、自己破壊をし過ぎることになる。そうすると死ぬので注意が必要である。

主人公にとって、最初は同じ日が毎日繰り返されることは地獄であるかのように思えたのだが、たった1日の中に無限通りに畳み込まれた楽しみ方があることを彼は知っていく。そしてそれを真の意味で彼が確信したとき、時は再び動き出すのである。

時間とは要するに、差異がたえまなく生成されるということなのではないか、というもっとラディカルな問いをこの映画は含んでいる。

この映画は、このことを、映像によって示している。本当に素晴らしい映画だ。

長々と書いてしまって申し訳ない。ここまで読んでいただきありがとうございました。
きょんちゃみ

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