何もかもが究極的

ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔いの何もかもが究極的のレビュー・感想・評価

3.5
自己の形成が過去の記憶から作られるとしたら。
よく漫画やドラマで自己を形成するのは記憶だという前提で作られる物語がある。
もし、本当に記憶が個人と言うものを形成しているのであれば、この映画で記憶に残っていない期間の自分は、酔いから醒めた自分と同じだと言えるのだろうか?
統合失調症(昔の多重人格)で有名なビリーミリガンと同じ現象かもしれない。彼は人格が変わる際に起きる表現を「別のドアが開く」と言っている。別の人格が表に出ているときは、それまで表にいたビリーという主の人格の記憶には全く残らない状態になるからだ。
この映画の登場人物は酔っている間、自分でありながら自分でない存在だった言えるのではないだろうか?
それでは自己を形成しているのは記憶ではないのだろうか?
記憶が今の自分を作るのではなく、自己はもっと別のところにあり、記憶とは自己が参照するものなのではないか?今、自分の中に保存されている記憶は、自己が選択した選りすぐりの記憶だけで、そこにしかアクセスできていないように思う。それが良いものだけでなく、自分が意識できない無意識レベルで選定されるので、生命として必要な嫌な記憶も身を守る上で、選りすぐりの記憶の中にとどめてしまうんだと。
それらを参照する事で自己をなんとなく形成しているように思えるが、実際は自己自体はそれに頼らなくても確実に存在しているのだろう。