純

ボーイ・ミーツ・ガールの純のレビュー・感想・評価

ボーイ・ミーツ・ガール(1983年製作の映画)
4.7
「ぼくらはこうして今も孤独だ」このモノローグから始まった時点で、私は心を鷲掴みにされた。退廃的な白黒の世界で美しく暴走する、あまりに不完全な若さが、確かにそこにあった。

この映画、本当にいつ観ても「斬新」「前衛的」って言われる作品だと思う。ストーリー性もそんなにないし、断片的だし、独特な雰囲気だから、理解しようと思ったらかなり難解だし、多分そういう映画じゃない。どんな映画かって言われても説明不可能だから、感じたことを印象的な台詞やシーンと合わせて書いていこうと思う。(諦めかもしれないけど)

物語の中心は、同じ時期に恋人を失ったアレックスとミレーユ。元恋人に狂人的なほど執着するアレックスを未練がましいだとかいやらしいだとかいう言葉で侮辱するのは簡単だろうね。でも、そうじゃない。青春は100%甘酸っぱさとキラキラで出来てるんじゃない。もっと苦くて誰かを失明させるくらい強烈な閃光が、あの頃にしかない速度で毎日を駆け抜けていくものなんじゃないか。若いと、誰かと群れていたいよね。誰かと一緒にいるっていうそのこと自体じゃなくて、誰かといることで「自分は孤独じゃない」って安心感が欲しい。思い込みたい、自分を騙したい、虚構だとしても誰かに必要とされてる自分を失いたくない。なんて不完全で頼りなくて脆くて未完成な生き物なんだろうって思う。孤独でもいいんだよ、皆孤独なんだよなんて言っても拒否するだろう、その弱さが愛おしくてしょうがない。事実なんかどうでもいいんだろうな。正しさとか可能性とか、大人が大切にするものほど若いときはたいしたことじゃない。アレックスはとにかく孤独な自分が嫌だった。受け入れられなかった。でも、「未練がましい」「いやらしい」って言われるような、みっともなくもがく生き方を若いときにできるって、本当は一番大事に守ってあげなくちゃいけないんじゃないかと、私は最近思えるようになった。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公ホールデンが何をしても満たされなかったように、アレックスも何をしても虚無感しか得られない。「ぼくは“ぼくら”が嫌いだ。一緒にいるともっと孤独になる」って台詞は印象的で最高だった。孤独同士の出会いに惹かれながらも、結局もっと孤独を感じてしまう感受性の豊かさ、鋭さ。ひとりきりなことが孤独じゃないこと、誰かとつながったその瞬間に自分には孤独が一生涯ついてまわることなんて、まだわからない。出口のない迷路で、でも出来る、自分なら出来るって思いながら、真っ暗闇の中で走り回ってるんだね。もがくって綺麗だなあ。若いときに、泥だらけになって、ボロボロになって、これ以上ないくらいに失望したことのあるひとは最高の生き方してると思う。少なくとも私は。

素敵な台詞が多すぎて引用多くなっちゃうんだけど、私が「最高だな」と思った台詞のひとつが「負け犬で終わりそうだ。チャンスはあったのに。非凡な人間になりたかった」だった。大丈夫だよって言ってほしいんじゃなくて、大丈夫だよって自分より弱いひとに言えるひとになりたい。非凡な人間になりたいなんて、そう思うことが平凡な証拠だなんて、無情な事実に微塵も気づいてない若さの美しさが痛い。すがるものが脆すぎる。非凡になれば孤独から解放されるわけじゃないのにね。こういう映画観てると、凶暴的な自分に気づくから怖いし、嬉しいと思う。実際、「ずっとその悪夢から目覚めないといいね」って思っちゃったもんね。

でも、それに対して「ひどくない?」って言う方が、きっとずっとひどい。多分大人になったらこんなことで悩んじゃだめなんだよ、羽目外しちゃだめなんだよ、正しさの中に収まってないと異常者なんだよ。世間が目に見えることでひとに価値をつけていく。そんなときに、言ってやらないとだめだと思う。「必死にボロボロになって生きてたあのときが、僕、私の誇りです」って。他人は所詮他人で優しくないんだから、たいした成果もなかったら認めてくれないかもしれない。自分が肯定してあげなかったら、あんなボロボロになるまでもがき続けた自分を誰が認めてあげるんですか。他人が褒めてくれる立派な自分じゃなくて、無様な自分を武器に生きていこう。苦しんで迷って破壊したあのときを宝物にしよう。屈折した感情を持って生きられたから、自分は青春を真っ直ぐ駆け抜けてきましたって、言っていいんだと思う。

後半になるにつれて、アレックスの曖昧さが顕在化してこれまた良かったなあ。孤独を嫌うくせに、虚無感しかない自分の人生に嫌気がさしてるくせに「恋わずらいしてる。治りたくない。苦悩だけが僕の誇りなんだ」なんて最高の台詞で、自分の生き方を肯定しちゃうからね。「あ、この局面もきちんと描くのか」って点では確かに前衛的かも。

厭世的なミレーユの美しさもものすごい。哀愁漂う表情が白黒の画面に際立つし、1時間は軽く彼女に見惚れていられる。自傷行為に走る姿も美しい。無防備なのに排他的。静かに暴走する、アレックスとは対照的な若さが瑞々しい。本当に、クールなようで実は瑞々しいあの感じ、なんとも言えなく好きだな。

アレックス三部作、真ん中の『汚れた血』(当時観たときに「文句なしの5点満点」って書いてるし、今もそう思う作品。)しか観たことなかったんだけど、『汚れた血』ではデヴィッド・ボウイの曲に合わせて激しく疾走するシーンがあって、この作品では無音ダッシュシーンとの対比が鮮やかだった。本当に、「走る」って生きることと直結してるなって思う。どんな走りをするかが、そのひとの生き方を表してるんじゃないとかね。あと、この作品でもデヴィッド・ボウイの曲が使われてたみたい。いちいちセンスが良くて、詩的な作品全体の世界観が完成されすぎててずるい。不完全な若さを描いてるこの映画はきちんと完成してるというこのアンバランスさのバランスの良さ。芸術ってすごい。

まくしたてるような独りよがりのモノローグ。タップダンスをするミレーユの色っぽさ。割れたコーヒーカップ。壁に描かれた地図と人生のシンクロ。公衆電話に書きなぐる愛の言葉。何もかもが美しすぎて、ため息を何回つけばいいのかわからないくらい粋だったし、色褪せない作品だと思った。好きなひとはとことん好き、退屈なひとはとことん退屈だろう1本だけど、私はこういう、感覚に直接訴えかけてくる、静かなのに激しい映画は、絶対に嫌いになれない。好きです。
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