IMAO

2/デュオのIMAOのレビュー・感想・評価

2/デュオ(1997年製作の映画)
4.0
エンディングクレジットに1996年製作とあり、確か引越しする前のユーロスペースで観た覚えがあるので20年以上前に観たことになるのか…やれやれ。アマプラにて再鑑賞。
話は古今東西語られて来たいわゆる「同棲時代」もので、最近だと行定勲監督の『劇場』などと同じジャンルに分類されるだろう。

あるカップルがいる。男は売れない役者。女は洒落たブティックでハウスマヌカン(この言葉も懐かしい)をしている。男は売れないことのストレスを女にぶつけ、女はそのストレスから心が痛めてゆく…というのが大まかなストーリー。
ストーリー的にはよくある話だが、この映画は諏訪敦彦監督の商業デビューでもあり、原点ともいえる映画になっている。一番の特徴はこの後諏訪作品の特徴ともなった「即興演出」が取り入れられたことだろう。これは近作『風の電話』に至るまで、彼の演出の特徴となっている。彼の近著『誰も必要としていないかもしれない、映画の可能性のために ー制作・教育・批評』(タイトル長い…^^)を読むと、この映画の製作過程が伺えて興味深い。最初はこの映画の準備としてプロットから始まり、数回にわたって脚本を書き直したのだが、どうしてもうまく行かなかったそうだ。撮影期間も迫りプロデューサーと相談したところ、最初のプロットが一番分かりやすかった、ということになり大まかなプロットだけで撮影してみよう、と決断したという。つまり、最初から即興演出をしようとは考えていなかったのだ。そこには諏訪監督自身が感じていた、通常の映画撮影のあり方への疑問があったという。映画(映像)を一度でも撮影したことがある人ならわかるだろうが、通常の映画では、脚本に書かれたセリフと動きをどう映像化するか?ということに精力が注がれる。そして演技だけでなく、映像を美的に撮るために、様々な制約が生まれてくる。あるシーンを撮影するために、カメラワークを優先するのか?それとも演技を優先するのか?そこはその演出の考え方にもよるのだが、画的な動きや美しさのために、役者はカメラとも「共演」したり、時にはカメラワークのために演技が犠牲になることがある。だが、諏訪監督はそこに疑問を持っていたという。役者がもっと自由に動ける方が良いのではないか?そうした考え方と、脚本という「縛り」を取り払った時に自然と「即興」という方法論が出て来たのだという。なので、この映画ではセリフは決めずにシーンごとの大まかなアウトラインを決め、役者がどう動きたいのかを役者自身に決めさせて、カメラはその動きを捉える(撮影は故・たむらまさき)という方法論となった。

今観直してみると、柳愛里と西島秀俊の二人がどうシーンを作っていったか?というドキュメンタリーにも見える。実際この映画は「山形国際ドキュメンタリー映画祭」でも流れたそうで、フィクションというよりは「カメラの前に起こっていることを感じる」映画だともいえる。もちろんあらゆる実写映画にはそういう一面があると思うし、その当時でも決して新しい方法ではなかった。例えば勝新太郎が監督をする時には、ほとんど即興だったという。だがこの『2/デュオ』が作られた頃、世界の映画界で似たような作品がたくさん現れ、この『2/デュオ』はそうした作品の先駆けともなったし、その先鋭性は古びていないと思う。
ただ、こうした映画を撮る時に一番の難しさは役者の力量にかなり左右される、ということだろう。その意味でこの映画での柳愛里の存在感は大きい。近作『風の電話』でも、モトーラ世理奈の才能はあの映画を大きく支えたと思う。もちろん、その才能を見抜いた諏訪監督の才能あってのことだとは思うが…
IMAO

IMAO