emily

ニコラのemilyのレビュー・感想・評価

ニコラ(1998年製作の映画)
3.9
内気なニコラ少年は12歳。厳格な父に育てられ、妄想と夢の世界に逃げ込んでいる日々。冬期林間学校に参加することになるが、父から聞いた臓器売買の話や、父が医療機器のセールスマンは表向きの仕事で密売人の捜査をしているなどと友達になったオドカンに話す。ちょうど子供の行方不明事件が勃発し、警察が探しているのは父親の車と同じ車種の車だった。

物語は説明を一切省き、現在と過去の時間軸を交わらせ、そこに少年の幻想と夢と嘘が交差しながら、その交わりが徐々にボーダーラインを危うくかき消しながら進んでいく。ニコラと同じように、観客も現実と幻想の区別がつかないままラストシーンを迎えるのだ。大事な会話はすりガラスの向こうでぼやかされたまま、二コラと同調し合い彼の眼が観客の眼となっていくのが特徴的である。

二コラの妄想や夢への持っていきかた、画面の切り替えが非常に自然で、呑み込めないまま時間軸まで交差していくのだ。彼の妄想には常に車が落ちて、血だらけの父親が映る。直接的な描写はなくとも過去軸で父のリストカットの痕や性癖も見え隠れする。

人間の心臓を死のイメージとして描写され、それは父親の死だけでなく自分の死の幻想へも向けられる。それらの描写は臓器売買の話と父親の医療機器に慣れ親しんだ二コラだから、かなりリアリティがありグロテスクな描写も多い。そこに性の描写も交わってくるのだ。女を身近に知らない少年の相手は女教師である。母親ではない。

それらの描写と対比するように純白の雪景色が広がる。そのはかない無音の美しさは少年の心の止められない恐怖と交差し、危うい冷えた空気感を作り出す。少年の妄想が徐々に現実との空間を埋め、悪の自分が願った幻想が現実の物と同じになっていく。ミサンガが切れるとその願いが叶う。しかしその現実はかなり先延ばしにし、大人の口からも何も語られない。味方だった先生からも何も教えてもらうことはない。言葉には嘘や主観が乗ってしまう。しかし二コラ少年はその現実を目前にして理解するだけの経験があるのだろうか。何も語られないままその現実を少年達の目で映す。見せられた物には説明がないと理解できないままラストを迎える。その後味の悪さが良い余韻となり、子供に真実をしっかり言葉で伝えることの大事さをたたきつけてくる。

二コラの自分の勝手な解釈と妄想により作り上げた世界が、また現実の世界でも繰り返されるのだ。彼は見たものを自分の頭で理解しようとするだろう。そうしてそれは真実とかけ離れた物になってしまうかもしれない。言いたくないことを先延ばしにする大人、観客に子供との距離感を問う。子供だって真実を知る権利がある。それを知らされなければ勝手な真実を自分で組み立ててしまうのだ。わからないならわかるように説明すればよい。いつだって真実だけが心を開放するのだから。
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