ほーく

アメリカン・サイコのほーくのレビュー・感想・評価

アメリカン・サイコ(2000年製作の映画)
3.5
悲しいとき~
ナイト・オブ・ザ・リビングデッドが観られないとき~

【痛烈批判】
またもや、マキトモさん登場。

2001年9月27日アップ

邦題「アメリカン・サイコ」

原題「American Psycho」

@シネマ・クレール

評者 マキトモ   

評価  4

ひとこと

スプラッターが生理的に駄目な人は見ないほうがいい。ディテールにこだわらない人も除外。シナリオの妙も期待しないほうがいい。そしてスプラッターを期待する向きには、たぶん物足りないことだろう。…にもかかわらず、私はお薦めする。

評者 ほーく 評価 3

ひとこと

80年代のバブルを知っているとより面白い。

<コメント>

まずは、マキトモさんのレビューから。

 一言で言えば、80'sアメリカン・バブリィ・ヤング・エグゼクティブ・スプラッター映画。虚飾に魂を売り払って、自意識過剰な嫉妬心と暴力に心身をゆだねる、80’ニューヨークの、ある美男子のお話。

 私は、この映画を岡山市内のシネマクレールの新館で、ほーくさんと一緒に見た。いやぁ良い映画館でしたね、と、まずはお世辞を言っておこう。いやホントにシネマクレールは、空間に余裕があり、居心地が良かったが、開場から上映開始まで館内にBGMが無く全くの無音で、客としては非常に話しづらいのが珠にキズでありました。ついでに2階待合室の換気を良くしてほしい。椅子は座りゴコチ良く、音もクリアで、客層も良く、上映センスもバッチグー(80年代語)。さぁさ、みんなでシネマクレールに行こう。

 で、アメリカンサイコ。この映画を語るには、80年代を語ることが避けられない。ブランド名詞の連打に、一々過敏に反応する(しかもその都度陳腐な解説を真顔で披露してくれるところまで80’な)登場人物たちには、既にして時代劇の趣。つまり時代限定の様式美が前面に押し出されている。

 良いマンションに住んでるのがエライ、良いブランド物を身につけているヤツがエライ、良いレストランで飯を食うのがエライ。そのエラさに毫も疑問を抱かない/そのエラさのためなら、どんな努力も出費も惜しまず、嘘も暴力も(ついでに麻薬も)平気な、純然たるイケイケのエグゼクティヴたちの、本人は大マジメな生きザマを、本作は微に入り細に入り描き出す。各自の名刺の紙質の僅かな差異をめぐって優越感の奪い合いが(静かにかつ熱く)展開され、場は半パニックになる、そんなゴージャスかつ神経質な時代風景を、本作はよく描いていると思う。どいつもコイツもテンパッた目つきで、自分のステイトを上げようと必死な一方で、妙に皆ガードが甘いんだな。

 取りたてて脈絡の無いシナリオだが、ディテールがしっかりしているので、それで良し。出てくるエグゼクティヴは男ばかりで、肩パット入りパワースーツと原理主義的フェミニズムで心身を武装した(つもりの)コテコテのキャリアウーマンに代表されるような80年代女性の世相は描かれていない本作。だが、「従順で古風な女に一抹の期待を託す」ってところが80年代男の精神構造(いや男は永遠にそうなのかもしれぬ/自戒)なのだから、これはこれで正しい時代解釈である、と解釈したい。個人的にはスプラッターの方は、おまけだと思っていて、時代のディテールだけで充分面白い。逆に、そういう細かいのに興味が沸かない人には、本作は退屈だと思う。主人公はイヤなヤツだし…。

 スプラッターと現実と非現実がごちゃ混ぜになるエンディングは、途端に画面に占める黒色の面積比が多くなり、なんだか誤魔化されたような気もするが、スピード感はある(歳をとるというのは悲しいもので、全然恐くなかったが…)。別売の日本語版パンフレットの解説がまた良く、これは是非買うべきである(あくまでバブル期の人間像に興味のある人に限るが)。

 さて、次にわたくしこと、ほーくの見解を。

 ~サイコと銘打つからには、シリアルキラー(連続殺人鬼)がでてこなくてはならない。また、その動機も当初は不鮮明であり、遺体の状況も異常であることが望ましい。更に、ホラーとしての演出の工夫も必要とされる。また、同様に最終的にはその動機を観客に納得してもらわなくてはならない。どんな終わり方にしろエンディングにも注意は必要だ。

 今回、ホラー的演出は大きい主題(とことん時代を再現する)により分断され、伏線は不発となり、更に、後半ではフォローしようがない矛盾まで現れる。ミステリーとしても及第点にはとても及ばない。一発逆転の回避術があるがこれは基本的に禁じ手であるので、採用したくない。

このシナリオの破綻を誤魔化し、異様な字幕の多さに疲れる観客を辛うじて救ったのは、ひとえに主演のクリスチャン・ベールの怪演のおかげであろう。スクリーン上の彼は見事にあっちの世界へイっていた。ひとごとながらこっちの世界へ戻ってこれたか心配してしまうほどだ。

 おかげで、共演陣は存在感を必要とされず、ウィレム・デフォーの活躍を期待するひともこれは観ないほうが賢明だろう。撮影監督が「レザボア・ドッグス」、「パルプ・フィクション」、「フォー・ルームス」といった一連のクエンティン・タランティーノ作品に参加したアンドレイ・セクラということだが、いくつかあった印象に残ったシーンのどれだけに彼の個性が出ていたのか判然としない。

 また、わたしは、見事にマキトモさんのご推奨タイプに分類されている。ハナからそれを楽しみにしており、その期待通りの成果だった。いや、もしかすると期待以上だったのかもしれない。この舞台設定(パンフレットによると87年)当時、わたしは高校生だった。金もなかったので体験者ではなく、目撃者となる機会もなかった。わたしは観察者となった。やがて、ジャパンバブルもはじけ、テレビの深夜帯に「カノッサの屈辱」という、皮肉っぽい視点で、時代の寵児となった品々の栄枯盛衰を語る番組が現れたのをご存知のかたもいるだろう。

 同時に、青年マンガ誌隆盛の時代でもあり、小学館のヤングサンデー誌上に「B・バージン」(著者:山田玲司)が連載され、当初の切り口がヤッピー文化の解説(と見せ掛けての揶揄)と、そのアンチテーゼとしての青臭い直球勝負というバランス感覚が人気を博した。(ただ、連載中盤以降は直球勝負を主体に展開するので違う路線と化すのだが・・・)

 やがて、ある程度の資金を自分で左右できるようになり、ちょっとしたスリルを楽しむようにその残滓に身を投じてみた。

 やはり、ここにはアメリカンサイコはない。あるのはジャパニーズサイコだ。アメリカンサイコは、数が限られていた。ある視点でのピラミッドの頂点にある椅子の奪い合いなのである。その視点が「アメリカンサイコ」だ。ところが日本は、視点を輸入(追随ともいう)したものの、頂点ではなくスタート時点でも、椅子の奪い合いではなく装飾にかかるのである。デフレ状況下でさえ、まだ蔓延している。いや、だからこそだろうか。

 最後に。マキトモさんが痛烈にシネマ・クレール丸の内館の批判を行っている。彼が指摘している点は主観的には同感である。残念ながら否定できないのだ。わたしも他の劇場の欠点を指摘している以上、これを黙殺することはできない。よって欠点は欠点として表示した。ただ、

上映作品群が魅力的なだけにできるだけ長く存続してもらいたい。

さらに欲を言えば、さきほどの欠点のいくつかを改善してほしいものだ。

興味を覚えるかたは、是非とも、観客が少ない時を狙って映画を観にいってほしい。ポイントとしては、朝イチか平日晩がよろしかろう。
ほーく

ほーく