樽の中のディオゲネス

居酒屋の樽の中のディオゲネスのレビュー・感想・評価

居酒屋(1956年製作の映画)
5.0
 人の不幸は、「あの人は不幸だ」というように、他人によって見て取られるものです。もし自分で自らの不幸を感じるのなら、その人は自分を客観視しているのでしょう。
 人が他人の不幸を感じ取るのは、その他人に幸せをもたらす可能性、つまり「希望」が消えてしまったように見えるからです。一方、人が自らの不幸を感じるとき、彼は自分の「希望」が消え去ったことを客観的に見て取っているのでしょう。言い換えれば、彼は「希望」を持っていたけれど、その「希望」を失くしてしまったために、自らの不幸を感じ取るのです。
 本作において、主人公のジェルヴェーズは、明らかに不幸であるように描かれています。けれども、(本作に出てくる)意地悪な娼婦に対して、(よほど感受性がない限り)私たちは不幸を見て取ることをしません。どちらの女性に対しても、同情し得る不幸があるように思えるのですが、何故そのような違いが生まれるのか不思議です。
 これは、おそらく、不幸を生み出す「希望」が原因だと思います。つまり、ジェルヴェーズは「希望」に執着し過ぎたあまり、耐えられない不幸に見舞われてしまう一方、娼婦はこの「希望」に執着しなかった、あるいは「希望」を持つことなど、はなからあきらめていたために、不幸の外観を生み出さなかった、ということです。
 もちろん、どちらの女性も自らの不幸を感じていたのかもしれませんが、後者の不幸は、他人の目には映らないのです。ジェルヴェーズも、あるシーンまでは、不幸を表してはいません。そのシーンというのは、(映画でしか表現できないことですが)彼女が自分の誕生日パーティーで歌う場面でしょう。’Laissez-moi dormir’という歌なのですが、その内容は、「眠ることも夢見ることも何の意味があるのだろうか、どうせ人は死ぬのに」というものです。そして、「何気ない日常がわたしの人生を切り裂いていく」と言ったとき、彼女は「希望」を完全に放棄したのでしょう。
 最後に、ジェルヴェーズの娘ナナが、走り去っていくシーンは、『ナナ』を想定しているだけではなく、どこか「禁じられた遊び」のラストシーンに似ていて、あの音楽が鳴りだすような気がしました。